【医師エッセイ】社会における居場所づくり
私は小児科神経医として、20年以上、障がい児及び障がい者医療に携わっている。私のことを頼りにしてくれる彼らがいること、そのことが私に自信を持たせ、誇りを持たせてくれている。そんな中で、私はいつも思うことがある。それは、「障がい者の社会における居場所作り」だ。これにおいては、まだまだ整備ができていないと、言わざるを得ない。「整備」という言葉を使うことも、どうかと思うが、ちょうどいい言葉がないので、あえて使わせてもらっている。
私が言いたいのは、「障がい者」と、上から目線で健常者が放つ言葉。それは本当に正しいことなのか、と疑問に思うところではある。この事に対して、疑問を持つことが大事であり、疑問を持たなくなってしまっては、いつまで経っても、私が目指したい世界は訪れないだろうとさえ思っている。
健常者と障がい者を比較すれば、それは違いがあるというのは、明白なことだ。だがそれは「違う」だけであって、平等にしないということにはならないのだと思うのだが、私の考えは間違っているだろうか?
「障がい者」に対しては、差別や偏見がどうしてもつきまとう。しかし、ちゃんと個々を見てほしいのだが、健常者であれ障がい者であれ、人は人だし、対等に扱うことが当然ではないだろうか。友だち関係、恋愛関係であってもそうだ。
しかし、同じ人間だとしても、障がい者には支援が必要だということも忘れてはいけない。この支援を行うことで、差別を行うのではなく、何の障壁もなく支援を行うことができれば、障碍者と健常者のバリアフリーとなるのではないかと、私は考えた。
初めは医師として彼らと接していただけなので、社会における居場所づくりが必要だとは思っていなかった。だが、幼少期から見てきた彼らが大人になり、社会に出ていくところを見ているうちに、軽度の障碍者が就職で苦労をし、悩んでいる姿を目の当たりにしたのだ。
2013年に施行された、障がい者総合支援法施行に基づき、障がい者などが地域で普通の生活を営むことを当然とする福祉の考えから、障害特性やライフステージに応じた支援が整備されつつある。この法律ができるまでは、本当に就労に関しては「ひどい」という言葉に尽きた。例えば、軽度の障がい者には障がい者枠に当てはまらないため、100社を面接しても落ちたり、中には面接中に酷いことを言われて帰りの電車に飛び込んでしまったり……ということもあった。中には、軽度では就職ができないため、障がい者としての診断書を書いてもらえないかという打診を受けたこともある。
人生というのは、学校を卒業してからの方が長い。社会の中にいかにして自立のための居場所作りをするのか、学生生活の段階から考えていく必要がある。学校生活と違い、就労時の環境変化は健常者でも困難なものだ。それが障がい者となれば、さらに困難を極めることは明白である。さらに彼らの希望する就労と現実には乖離があることが、いまだに多いのも事実。「軽度」や「傾向がある」といった障がい者でも、知り合いのツテをたどることでようやく一般就労に至るといった具合だ。彼らにも夢があり希望している職業があるのだが、そういったところでの就職ができず、福祉就労となることも多かった。
彼らの人生なので,何が幸せなのかは人それぞれだが,金銭的な自立を目標にするのであれば、福祉就労では難しいということも知っておいてほしい。知的な特性であったり、対人関係における特性であったり、それぞれ特性が違うため合理的配慮、バリアフリーな社会の実現が必要なのである。
ただ私は一つ疑問を持っていることがある。それは一般就労にしろ福祉就労にしろ、就労だけが金銭的な自立や自己肯定感を高める日々に繋がっている社会に対してだ。就労以外のことでも、人間的な成長につながる社会にする必要があると、私は考えている。なぜなら人は人によって支えられ、強くなり、人として成長するものだからだ。私自身も人々に支えられ、夢の実現に向けて後押しされてきた。彼らがいたからこそ、今の私がいると言っても過言ではない。
「障がい者の社会における居場所作り」を実現するため、10年以上前から講演会で障がい者にとって何が必要で、どういう社会を実現すべきなのかを訴えてきた。そうやって人の輪をつなげていき、有志の輪は広がっていった。社会の在り方を変えることが必要といえる。医療現場そして教育現場で講演会をし、理解者を増やしながら、私のみならず私を支えてくれている人々ともに不撓不屈の精神で、これからも「障がい者の社会における居場所作り」の場を、増やしていくために歩み続けていくつもりだ。
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