【医師エッセイ】当直カレー
医師の仕事の1つに研究がある。ただ、機器分析の進歩によって、作業の煩雑さは格段に減った。A溶剤にB溶剤を入れて、10分後にC溶剤を入れるといった物が、最初にセットしておけば、30分後に測定結果を読み取るだけになった。ただ、どういった化学反応が起きるかわからないので、その場から離れることはできない。
こんな時、医師によってすることは様々だ。スマホで動画を見る、ひたすら体を鍛える、本を読む……。しかし私が所属する医局は、料理をする者が多い。料理は集中力を高めるのに適しているし、研究をしている医師以外にも当直医がいるため、出来た料理はまかないにできる。ただ、当直医には病院食が支給されるため、作る料理はあくまで軽食。多いのは、カレー、煮込みうどん、味噌汁だ。カレーに至っては、実際にスパイスから作る医師もいた。研究が一段落する頃、当直医がカレーの匂いにつられて顔をひょっこりと出す。
「食べてく?」
当直医とまかない飯を食べながら話すのは、案外楽しいものだ。
「どう? そっちは」
「今日は急患が多くて、忙しくて」
ここに看護師が加わることもある。料理というのは作るのも楽しいし、料理があるからこそ人が集まり、会話になるというのも楽しい。おかげで、私の医局の研究室にはスパイス缶がズラリと並んでいる。
「おっ、今日のカレー美味しいじゃん」
「そう? パンチを効かせた方がよくない?」
「いやいや、これぐらいがちょうどいいんだって。レシピ教えてよ」
スパイスの量や具材で味が変わるのは、研究をしている感覚に似ている。今度はこれを入れてみるか、今度はこれを試してみるか、と、夜中に医師や看護婦が集まってカレーを食べながら話しているのは、中々のもの。とくにカレーは、基本誰もが好きだ。自分なりの配分を考えるようになってくると、持論のようなものが出てくる。それを語り合うのは、仕事とは違う楽しみがある。
「玉ねぎとかさー。形残っているのがいいんだよね」
「もうちょっと、辛口のがいいかな」
「カレーの好みって、結構人それぞれだよね」
そんな風に注文を付けてくることもあるが、そう言いながらも全部平らげてくれるのは嬉しい。たとえ研究が上手くいかなかったとしても、平らげてくれたお皿を見るだけで、達成感を覚えることができる。今日の研究はカレーだったんだなと思うこともあるぐらいだ。
作ったカレーが空になったら、後片付けも自分で行う。当直医は忙しくしているため、結構食い散らかすものだ。だから、机を隅々まで綺麗に吹いておかなければいけない。思わぬところにカレーが飛んでいた場合、翌日誰かが被害に遭ってしまう。
カレーは美味しいのだが、匂いが残るというのと、服のしみになってしまうというところだけは難点だ。
だが私の楽しみは、それだけではない。研究が早めに終われそうだとわかった時のカレー作りは、甘口にしている。なぜなら、家に持って帰って子どもたちにも食べてもらうからだ。病院の人たちに食べてもらうのも嬉しいのだが、我が子となると、その嬉しさはやはり違う。私が作ったカレーを、美味しそうに食べる子どもたちを見ていると、疲れなど吹き飛んでしまうほど幸せな気持ちになれる。
ただ病院で働いているお父さんが、なぜかカレーを作って持って帰ってくる。そんな家庭は、ほとんどないのではないだろうか。ある時、子どもにこんなことを言われたことがある。
「お父さんって、職場でカレーを作るのが仕事なの?」
まだまだ小さい子どもには、理解できないのだろう。だから、自分が内科で診察をしてもらっている時に、「あのお医者さんもカレーを作ってるの?」と聞かれて、困ったことがあった。
「どうだろうね」
私はごまかしてみるが、その内科の先生は笑っていたので、きっと経験があるのだろう。
それから10年の月日が流れた。私は相変わらず、研究の合間にカレーを作っている。今日はこのスパイスを配合してみよう、合わせる具材はこうしてみようと試行錯誤を繰り返しながら。だが、研究が早めに終われるとわかっている時も、もう甘口は作ってはいない。子どもたちも成長して、甘口ではなく辛口でも食べられるようになったからだ。
「昔は甘口のカレーの時は、早く帰るんだなってわかったのに、今はわからなくなっちゃいましたね」
後輩にそんなことを言われたことがある。なるほど、周りからそんな風に思われていたのかと思うと、少しだけ恥ずかしい気がした。
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