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とある恩師への手紙

今まで自分が書いたものを他人に見せることはしてきませんでした。自分が語ってもいいのか、という気持ちもあれば、自分の声が本当に他者へ届くのか、ただ笑われてしまうだけではないのか、そう感じていたから、一歩先に踏み込むことはできませんでした。
けれど、度重なる死と迫りくる自分の死から段々と目が離せなくなり、自分という人間と自分が抱えた暴力性に対してどうしたら手綱を握られるのか、考えるようになりました。
そしていつの間にか、かつての自分のように孤独で生き辛いと思う人のために「自分は何かできないか」と思うようになり、Z研究会というサークルを作ろうと思いました。
創めた当初は仲間なんて一人もおらず、お先真っ暗な状態で、サークルとして孤独な人々のための居場所が作れるとは思ってもみませんでした。
けれど、先生の人類学を学んだ人たちが一緒に立ち上がってくれました。本当に、ありがとう、と言いたいです。
苦し紛れに発した自分の声はちゃんと届くと、全員ではないけれどちゃんと届くことを知りました。
勿論、サークルの形態はまだまだ不完全です。当事者性を持った人々は沢山いるけれど、当事者が参加したときにちゃんと彼らのことを守れるような体制がまだ構築できていません。
本来ならば、安心して話せる場所を作りたかったし、この居場所で諦めなくてもいいし、絶望しなくてもいい。そういう場所を作りたかったという気持ちが強いです。
私たちができたことは、次の人々への物見の塔を作る、そのためのレンガを積む一段目、でしたが、時代を超えて自分の知らない誰かのために、その居場所が機能してくれたらいいなって思います。

今回のこのテーマは、ある種の過去と現在の自分の邂逅です。風通しを良くしつつ、あのときの自分は本当は何を求めていたのだろうと、記憶と気持ちを手繰り寄せながら記していきました。なので、きっとこれはある人にとっては、ただの私のマスターベーションに過ぎない代物かもしれません。
というか、モノを書くということは、ある意味でそういう側面があったのかもしれないと書いていて思いました。新しい発見です。

表紙の写真に使用した私の「〇〇」という字は、今年の1月に亡くなった親戚のYさんが書いてくれたものです。
私は残念ながら、Yさんとの記憶があまりなく、電話で数回話したことがあるくらいですが、「名を立って生きる」ときにこれは絶対重要なエピソードになると思い、貼り付けました。

人は、勝手に人の意志を継ぐし、自分の関係のないところで影響を受けています。それはときに汚染かもしれませんが、それでも人は生きています。

かつて、私は母国語で傷付き、母国語で救われました。母国語が使える環境なのに理解者がいない、けれど何千キロと遠く離れた母国語の本が、というよりあなたが助けてくれました。
言葉を磨きたいと思うようになったのは、そのときからかもしれません。

私は言葉を生業として、核として、救いようがない世界でも、分かり合えない世界であっても、言葉を紡いでいきたいです。
いいですよね、先生?

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