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松ちゃん、そして芸能界の贖罪。

松ちゃんが、飛行機について、
「アレは、日本からアメリカへわざわざウンコを運んでいる」って言ったのが、その世界観を表しているように思う。

北野武と対談する番組があったけど、たけしは、あくまでそのお題に乗っかった上で毒を吐くのに対し、松ちゃんは、そのお題をひっくり返してその裏側から本質をつく毒を吐くところがある。飛行機だって、空を飛ぶ翼に見とれてしまうけど、裏側を見れば、どうしてもウンコを腹に抱えざるを得ない。

松本人志。これまで、その異次元ともいうような角度で、物事の本質を突くところから、人々の笑いを誘ってきた人だ。僕は中学生から「ごっつええ感じ」を観ていたから、かれこれ30年、テレビで松ちゃんの「本質」を見続けている。

だけども、松っちゃんの笑いというのは、その本質を突く笑いという性質ゆえに、「暴力」や「狂気」を孕むようなところがあった。北野武も同様ではあるが、たけしはナイフでスパッと切ってしまう、銃でストンと打たれてしまう、0か100、白か黒かといった、この世の不条理というものに対して何かを訴えるような描写があるのに対し、松ちゃんはもっと、細かいところ、0.1、0.11、0.111…のところをじっと見つめている感じがする。

そういった松ちゃんの狂気じみた笑いというのは、ごっつええ感じ時代から、コントとして度々表現されてきたけれど、正直言って「笑えない」ものも時としてあった。不条理として笑えるものもあれば、「それはやりすぎ」と、中高生ながら思って観ていたところもあった。(でも若いので、それを理解できない自分がまだ子供だと思っていた節もある。)

そして、その狂気、或いはコンプレックスは、女性に対して向かっていったところもあった。「ブサイク」という単語で、容姿が端麗ではない女性を避難していたところがあった。完全なルッキズムの象徴でもあり、これも僕は中高生時代に影響をうけて、「ブサイク」という単語を好んで使っていたように思う。

この剥き出しのコンプレックスというのも、松ちゃんの旗印であった。お笑いビック3だとか、関東芸人が全盛のテレビに対して、今までとは違う、声を張り上げないで、ぼそっと本質を突くような笑い。庶民的だけど、どこか本質をついているような、異次元感覚を味わうような笑いが、僕たちは大好きであった。その改革の旗印として、暴力的で狂気的であっても、それは従来の笑いをぶっこわすエネルギーとして、受け止められる部分はあった。

それから程なくして、ダウンタウンは、テレビの頂点に達することになる。コント番組は終わったものの、音楽番組やバラエティ番組のMCとして、「ひとりごっつ」「IPPON選手権」といったお笑いを追求する番組や、「リンカーン」「水ダウ」といった企画もの、大みそかの「笑ってはいけない」のような大型企画から、近年は「ワイドナショー」のような世相を切る文化人よりの発言も出てきた。

これによって松ちゃんは、昔の狂気じみた笑いから、少しずつ「お茶の間」の幅広い層にも受け入れられる存在になってきた。自身が結婚して、娘さんがいることもあるだろうけど、「ちょっと若いお父さん」のような存在になり、みんなの中心にいて、バランスをとった笑いを提供してくれるようになり、ある意味で僕らは「安心」して、ダウンタウンの番組を見られるようになった。

しかしながら、その「安心」は、脆くも崩れそうになっている。「やっぱりか」という嘆息が、この年末年始に聞こえてきてしまったのではないか。孤高のカリスマであるが故に、周りの取り巻き連中は、耳障りの良い言葉ばかりを並べているのだろう。そこに、自信の笑いの「承認」を求める何かが、悪い作用をもたらしてしまった。

つまり、狂気は元々あったのだ。今回の文春砲が「事実無根」というのは、さすがに通らない話だろう。僕でさえ、身近な友人を通して数度、きいたことがある話だ。後輩が女性を「献上」するシステムがあったことは、否めないと思う。

僕は個人的にダウンタウンは上手く時代に合わせてきたなあ、さすがだなあ、と思っていた。元々、こんな丸い人たちでは無かったのだ。それが、やはり「笑い」を追求するだけあって、ちゃんと時代に合わせて「笑い」を提供するのだと、感心していたのである。

でも、そこに時代が「待った」をかけたということだ。それに対して傷ついてきた人たちがいて、今はその過去の歴史を「清算」する局面にきてしまったのだ。これを「笑い」に変えるには、それ相応の対応が必要になる。これからも「安心」して笑うために。ここまで来た以上は、生半可な対応では、もう笑う事ができなくなってしまう。それは、他ならぬ松ちゃんが知っている筈である。

それにしても「英雄、色を好む」という言葉があるように、これまでリーダーとなる男は、いくつもの妾をもっていたのだが。伊藤博文もそうであり、そして今度の一万円の渋沢栄一であったってそうである。生きていれば、彼らだってMe,too運動の矛先になったに違いない。それだけ日本が人権において成熟した社会になったという事であり、未来の子供たちには、それが当たり前として教育しなくてはいけないのだ。

それにしても…。と、結論が煮え切らなくてすいません。確かに、「英雄」たちの裏側が暴かれ、虐げられた人の声が取り上げられるのは、当然よいことです。でも、やっぱり松ちゃんのそんな裏側は見たくなかったよ。ジャニーズも宝塚も、夢を見させてほしかったよ。どうしても、その夢が潰えたことが悲しくて、これが嘘だったら良いのに、もうこれ以上、こんな事が暴かれなければいいのに、と思うけど、でもきっとこの波は止まらないんだろうね。

繰り返すけど、未来のために、夢のステージは、一度キレイに掃除しなくちゃいけないみたいです。煌びやかな世界であっても、きちんとした良識とルールの中で、公平な競争があり、オーディションがあり、実力を競う世界にならなくてはいけない。誰もが笑って過ごせる社会のために。どうか、芸能界の人たちは、ほんとうに腰を据えてこの問題に取り組んでほしいと思います。

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