見出し画像

子どもが人を愛せる力を持てれば、それがすべてだと思う



娘が今日、『グッときた』という記事をLINEで送ってきた📲


どちらかと言えば私が送ることが多いそういう類いの話を、娘はいつも茶化したり、ケチをつけたりするのだが、この記事には不意を突かれたらしい。


<今日の娘のLINEより>



      (娘のトーク)


https://www.seiko.co.jp/csr/stda/archive/2019/detail.html



  (私のトーク)
幸せ過ごす→幸せに過ごす


私は、年間10日ほどしか娘に会っていないので、寂しく思いながらも、娘が機嫌よくしてくれてるからいいかなと思っていたので、娘がそんなことに気づいていないことの方が驚きだった🫢


私はお返しに、娘に2つの記事を送った。


*1つは末期のガンを患っている幡野広志さんのインタビュー記事📝
(彼は余命宣告を受けて、幼い子どもと奥さんがいるのに、その彼に人生相談をしてくる人がいるという。)





      (私のトーク)


*もう1つは、絵本作家・エッセイスト佐野洋子が、自分の子育てを振り返ったエッセイ📕


<私はダメな母親だった>
       佐野洋子


私はみっともない母親であった。
友人ははき捨てるように「あんたともあろう人が子供のこととなるともう見ていられない、いや見たくない」と言った。このあんたともあろう人ってのは気に入ったけど、だからこそ本当に醜い母親だったのだ。子供にさえ言われた。「あんたは、人間としてはまあまあだけど、母さんやってる時はみっともない」。この人間としてはまあまあというのは気に入ったけど、そのみっともないことをさせる当人に言われたんだから情けなかった。私はだから、なにも言えない。しかし開き直らせていただければ、子供は親が育てるものではない。自分で育っていくのだ。そして親を育ててくれるものなのだ。もしも私に子がなかったら、そしてもし子があってもそれがいい子だったら、私はとんでもなくイヤなやつのままでいたに違いない。もしもいい子だったら、それは自分がいい賢い母親で、自分の教育の成果だと勘違いをしていたかもしれない。
思春期に子供が荒れ狂った時、私は毎日泣いていた。全部自分のせいだと思ったのである。
私は自分の生きてきた道すべてが、子供をそのようにしてしまったのだと思った。ありがたい

ことに世間の人すべては私のせいだと言った。本当にありがたい。しかしある人は「自分のせいだなんて思いあがるな、自分が子供にそんな影響力があるなどと思うのは子供の魂への侮辱だと思う。彼は今人間になろうとする混沌を生きているのだ。彼をそんな弱い人間だと思うのは失礼というものだ」と言った。しかし、バカな私は「そうか」なんて思えないのね。ただひたすら、自分を責め続け、うろたえ、おろおろして、毎日ドッキンドッキンと不安であった。
やることなすこと、裏目裏目に出てくるのである。しかし、裏目をやめることができない。
ある時、ケロリとまともになってしまった。それは、私が母親の愛をすべて捧げ尽くしたからではなかった。子供が、親以外に愛する他者を見つけたからである。私は呆然と腰が抜けた。
そして私は、土下座して神に感謝したのである。「ありがとうございます。あの子に人を愛する力を与えてくださったこと、そんな偉大な力を与えてくださってありがとうございます」。

私は本当にうれしかった。ふ、ふ、ふ、べつに私を愛してくれたんじゃなかったけどね。人は人を愛することで、人間として実にまっとうになるのである。私はこれで安心だと思った。私の役目は終わったのである。そしてそれから彼は彼の人生を歩き始めたと私は思っている。そして思い返すと、私は子供によって実に楽しい人生を持つことができた。それは、なんでもない、ただ子供がかわいかったということだけである。どんなことも、ああかわいかったと思わせてくれたので、私は、思い返してニマニマ笑ってばかりいられるのである。テレビにばかりしがみついている子供に腹を立てて、私はテレビを外に放り出した。子供は延長コードを引っ張り出して地面に横たわってテレビを見ていた。笑えるの。今なら。「そんなに言うこと聞かないなら出て行きなさい。あんたの着てるもの全部私が買ったものだから全部脱いで出て行きなさい」。子供はパンツを脱いでスッポンポンでたんほの中に出て行った。かわいいと思わない。8つの素っ裸の男の子。私は、子供が人を愛せる力を持てれば、それがすべてだと思う。



     (私のトーク)



娘のスタンプ(上)と
私のスタンプ(下)と私のトーク




勿忘 Awesome City Club