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父のこと

最近、よく父や母のことを思い出します。
ひとつには短歌を始めたことで、家族の風景を詠むことが増えたからだと思います。

そんな中、昨日は、私の父の歌がNHKのさくら短歌大会で秀作に選んでいただきました。

最期には古武士のようと評されしコール一度も鳴らさず父は

NHKさくら短歌大会中川佐和子選


角川の「短歌」に佳作で載ったのも、父の歌でした。

一周忌父の財布にあったぞと私の写真兄から貰う

「短歌」5月号中津昌子選 佳作


今月号の塔にも、父のことを詠んだ歌が載りました。

思い知る吾子を育てるその中で父の偉大さその優しさを
気が弱く母に小言を繰り返し言われて黙る父と思いき

塔7月号205p

母は千葉で生まれた総領娘(長女)、父は熊本で七人兄弟の下から二番目で生まれ、幼いころに父母を亡くし、長兄夫婦に育てられたと言っていました。そんな育ちもあったのでしょう。母はケンケンと父に小言を言い、父は多くは反論もせず、やりこめられているように見えました。
気が弱い人だなぁ、と思い、時々爆発する癇癪には嫌な思いをし、どこかで父を小さく見ている私がいました。

母が五十六歳で脳卒中で倒れた時、父はありったけの有給を使って母のそばに詰めていました。会社の同僚からは、いくら有給が余っているからって、こんなに長期間休むのはどうか、という意見も言われたようですが、そんな苦言には耳もかさず、ただ、母のそばにいました。
その後、母も小康を得、父は定年後にカメラを趣味にしました。
会社に行ってた頃のように、毎朝早く起きて、どこへやら写真を撮りに行っていました。少しずつ技術を覚え、少しずつ、朝日カメラのような雑誌にも載るようになり。父の(自称)傑作が、大きく伸ばされて居間に飾られるようになり、その数はどんどん増えて行きました。
素人目にも、これはいい写真だな、と思う写真も増えてきました。

そして、ある時、写真集を出したい、と言い出しました。
もちろん、自費出版です。その写真集に、私の短文を載せたい、と、父は言いました。

「姉ちゃんは書くのが好きだろう?
とっちゃんの写真に、姉ちゃんが短い詩を書いて、合作の写真集にしようじゃないか」

父がそう言ってくれたとき、私は重めの鬱を患っていて、どうしても、なにも、ひとことも書けませんでした。

「今だったら…」

そう思わずにいられず、一冊だけもらった父の写真集を、押し入れの奥から引っ張り出してきました。


その写真集には、私が思っていたより、ずっと綺麗な写真がたくさん載っていました(←親不孝な言い方・汗)

特に、「スイレン」と題された写真は、私の大好きなモネの睡蓮にそっくりの写真でした。



お父さん、あの時は、ごめんね。
それから、今になって短歌のネタにしちゃって、ごめんね。
今回は秀作が取れたよ。これもお父さんのおかげだよ。ありがとう。


親不孝な娘は、空に向かって、そう父に報告するのでした。

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