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シニアに学ぶ『退職後の輝き方』第5回 佐伯 光昭氏『いつでも共に プロフェッションを大事にして』

この記事は、2012年~2017年にかけて当委員会で連載されたインタビュー企画である「シニアに学ぶ『退職後の輝き方』」を再掲載するものです。インタビュー対象者のご所属等については、掲載当時の肩書のままになっていますので、ご留意ください。

1946 年、東京生まれ。埼玉大学理工学部建設基礎工学科卒。1969 年日本技術開発株式会社入社。耐震・地震防災業務に携わり、1988 年地震防災室長を経て、1999年取締役、2004 年代表取締役社長。2009 年株式会社エイト日本技術開発副社長。2011年より現職。土木学会、日本地震工学会、建設コンサルタンツ協会等の委員を多数歴任。
インタビュー日: 2013 年 4 月 24 日
聞 き 手: 高橋麻理,駒田智久,松本健一

再掲載に当たって(委員会より)
 
佐伯光昭さんは、地学と土木という学問をつなぐ立場で活躍され、本四架橋や東京湾アクアラインのような巨大プロジェクト等の耐震設計の分野に貢献されました。その後 9 年が経過し、当時の巨大プロジェクトのことを先輩技術者からお聞きすることも容易でなくなってきました。技術者や行政職にコスト管理の意識が必要ということや、プロフェッションを大切にすること、パブリックの概念を持つことなどの思いを持ち、「次の世代への伝道師」の役割になりたいと語っておられた佐伯さん。将来的に設計地震動を統一させたいという思いなどを今の土木技術者にお伝えできればと思います。                                                                                                       2022.11.16  文責:たかし

地震防災・減災の講演

現在の仕事内容を教えてください
 最高顧問として、震災復興や減災に取り組んでいます。また、社会貢献のひとつとして、国や地方自治体などで講演や研修などをしてきました。技術的な話より、考え方や取り組み、教訓の活かし方などを中心に話しています。職員のみならず、一般の方も対象にした内容です。土木技術者の哲学や倫理についても触れています。
 また、この 4 月から母校の大学院で週一回社会基盤特別講義を始めました。準備が結構大変です。

聴講者の反応は
 アンケートではそれなりの評価 をいただいています。講演の日程 などから一般の方の参加者はあま り多くなく、それが少し残念です。一方、技術者でも学校で地学を履修しておらずプレートテクトニクス等基本的なことを理解していない人が多いのは問題と考えます。

日本はリスクの大きな国土

伝えたいことは何ですか
 福井地震から阪神淡路大震災までの 47 年間に千人以上の死者を出した地震がありませんでした。この間に日本は世界第二の経済大国になりましたが、日本のような国土リスクの高い先進国は他にはありません。これからは、このような国は現れないでしょう。
 日本で高度に発展した社会経済生活を安全に送るには、それなりのコストや管理の意識が必要になります。土木の行政職や技術者には、常にこのことを念頭においてもらいたいと思います。

電気から土木、耐震、防災へ

これ迄の経歴を聞かせてください
 東京・両国で生まれ育ちました。叔父が関東大震災で行方不明になり、これが私の原点となっています。高校は電気科に進みましたが、田子倉ダムの見学に行き、土木の大きさに惹かれました。高校 3 年生時の新潟地震に衝撃を受け、地質と土木の境界領域を勉強する新しい学科ができた埼玉大学に入学しました。大学では高名な先生から多くの忘れがたい授業や指導を受け、地質や地盤に興味を持ちました。
 就職時に担当の先生から「これからは技術をやりたいならコンサルタント」と言われ日本技術開発に入り地質部に配属されました。
その後、橋梁基礎のグループに移り、そこで上司に恵まれたことは幸運でした。入社 5 年目に建設省の土木研究所に派遣されたことをきっかけに本格的に耐震設計に関わるようになりました。
 その後、社内に地震防災室を立上げ、地震時のライフラインの復旧や耐震化等の検討を始めました。最初は社内ベンチャー的でしたが、5、6 年後には初年度の3 倍の業務量に成長しました。時代の要請もあったとは思いますが、スタッフに恵まれたことも大きいですね。

思い出に残っているプロジェクトは
 20 歳代では、土研の振動研究室に交流研究員として派遣され、構造物の耐震検討を行ったことです。これが人生の大きな転換点になりました。土研にいたのは僅か 7ヶ月でしたが、この時出会った上司や先生と共にその後多くの仕事をして成果も上げることができました。
 30 歳代では、東京湾横断道路の地盤定数設定や耐震検討と、本四連絡橋の耐震解析等を並行して実施し、当時の巨大プロジェクトに様々な形で関わることができました。
 40 歳代で、地震防災室長となり、東京都の既設橋の耐震補強計画策定や水道施設初の本格的な耐震検討を行いました。

相手が求めるものを考えて

経営の実務はいつごろから
 50 歳代で、理事から取締役になり経営に参画しました。敵対的買収やそれへの対抗措置など経営者として厳しい局面もありましたが、やるべきことを何とかやってきました。
 経営者としての理念は理想論かもしれませんが、儲けるより、いい仕事をすることが大事だと考えています。受注者・発注者が共にプロフェッションを大切にすることが重要ですね。
 私は相手が求めるものは何かをいつも考えて行動してきました。こうした姿勢が多くの人に支持されたと思っています。また、発注者の中に信頼できる人を見つけることも重要です。個人的にも懇意にできる人ができ、私は幸せでした。
 構造物の振動観測体制を今後に期待したいことは日本は地震国なのに土木構造物の振動計測体制が全くできていません。そのため、これだけ動的解析が普及しているのに、検証できるデータがほとんどありません。
 建築では高層ビルに地震計を設置して振動特性を把握していますが、土木構造物で地震計があるのは明石大橋くらいで、東京湾横断道路にすらありません。これは国家的損失です。以前からいろいろな場面で土木構造物に地震計をつけるよう進言しているのですが、未だに実現していません。
 それから、日本は、各種構造物の設計地震動が統一されていません。安心安全の説明を求められる時代に、これではわかりにくくて困ります。是非、分野をまたいで統一した地震動で設計するような仕組みを作りたいですね。

人は自分で育つ

後に続く技術者へのメッセージを
 基本的に人を育てることはできないと思っています。環境や上司・部下に恵まれるという場合も、そこには本人の不断の努力があります。個人の資質はあるものの、向上心や持続力は意志の問題と考えます。
 パブリック(公共)の概念を持って欲しいですね。学校教育や社内教育できちんと教えることが必要です。それと自分が関わる構造物の背景、社会的なものや地域特性に目を向けて欲しいですね。
                        (文責:高橋麻理)

COLUMN
逝ってしまった友人

 佐伯光昭さんが癌と戦っているのは初期から承知していた。相当の期間になり、衰えも気になりだした。直ぐとは思わなかったが、元気なうちに彼の自身に関する話を聞いておきたいと考えた。インタビューは話が弾み、時間が足らず 2 回に亘った。それから約 5 カ月、とうとう逝ってしまった。その間に、彼にドラフトを見せられなかったのは残念。この取纏めのご了解を頂いたご遺族とともに墓前に捧げたい。
 彼は多くの早世した頑張り屋さんと同じく、長生きした人の一生分以上に生きたと考えたい。彼の「想い」に基づいた、真摯で精力的な活動が、後輩に限らず多くの人々の参考になることを願っている。
     会社で長く共に仕事をした  駒田智久

インタビューを終えて(聞き手から)
 佐伯光昭さんの話は耐震設計はもちろん、経営方針、公共の概念、原発問題、教育まで多岐にわたり、インタビューの数時間や 2 ページの記事にはとても収まりきらないものでした。
 伝えていただいたメッセージを私たちはどこまで実現できるでしょうか。失った人の大きさを改めて感じました。


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