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抽象度に託された意思

「そこまで詳しく伝える必要があるだろうか?」

仕事やプライベートで、こう立ち止まる瞬間は枚挙に暇がない。何も大げさな話ばかりではなく、メールやチャットに付け加えた一言を消したり、敢えてぼかした書き方に改めるなんてことは日々無意識のうちに行っている。

詳しさとは、情報の解像度だ。被写体が何であるかわかる程度のピンボケ写真と、臨場感あふれる鮮明な写真のどちらを渡すか。とりあえずモノトーンに加工し、彩りは後から伝えるか。そもそも、彩りは伝えないか。

ここで言う解像度は、抽象度とも言い換えられる。意識的あるいは無意識的に抽象度の高低を調整しながら、その場で最も適切なコミュニケーションを実現するために言葉を発している。具体と抽象の両極で築かれた建物の中で、絶えず抽象度の階段を行き来して生きている。

仕事がきっかけでそんなことを考えていた折、三木那由他さんの『言葉の展望台』を読んだ。はっとさせられる文章がたくさんあった中で、次の一節は、読了後に何度も反芻しては省みさせられている。

…ポール・グライスが提唱した会話的推意という現象だ。もしもっと具体的なことを伝えられるならばひとは曖昧な物言いをしないはずで、逆に言うと曖昧な物言いをしているならば、「これより具体的なことはわかりません」と暗に伝えることになる。こうした、〈はっきりそう言っているわけではないが話し手が合理的に判断して会話をしているとすればそのように間接的に伝えていることになる〉という現象が、会話的推意だ。

三木那由他『言葉の展望台』(講談社, 2022)pp.134-135

会話的推意は、言語哲学で用いる用語。あまりなじみのない言葉であるが、著者の三木さんは、自身のエピソードを交えながら、難解な言語哲学の世界を解きほぐすように垣間見させてくれる。

上記で引用した一節は、ある抽象度にとどめることそのものが相手へのメッセージとなるという指摘である。

たしかに、敢えて抽象度の高い言い回しをするときは、「今あなたにそこまでは伝えられない」とか「今はお約束できません」といった意思を伴っていることが多い。「ここまで伝えたらかえって混乱させてしまうかもしれない」「無駄を省いてわかりやすく」といった配慮による場合もあるが、いずれせよ、合理的な判断によって選択された抽象度には、相応の意思が込められている。

取引先との商談にしろ社内協議にしろ、情報の確度や影響を踏まえ、その開示の要否や範囲は慎重に判断しなければ命取りになる。十分な裏付けがないまま具体的に伝えたがゆえに相手の期待値を高めてしまい、後々になって撤回、訂正しなければならなかった苦い思い出は、片手に収まりそうもない。下手にobligation(義務)を負わないよう、曖昧な言葉でその場を取り繕おうとするのだが、それがかえって相手の信頼を損ねたりもするから難しい。

情報の意図的な余白は、受け手との適切な距離間を保つために必要な反面、ときに空回りを起こしかねない。この現象について、書籍の別のくだりではあるが、コミュニケーションの「遊びの余地」と「暴力の余地」という表現で解説がなされている。

話し手の意図や言葉の本来の意味はときに無力で、意図も言葉も捻じ曲げて意味をわがものにしようとする力に、話し手はしばしば屈してしまう。自分の発言の意味を決める権利が、他人に奪い取られてしまう。コミュニケーションにおける遊びの余地は、同時にコミュニケーションにおける暴力の余地ともなる。

三木那由他『言葉の展望台』(講談社, 2022)p.69

日常のコミュニケーションは思っている以上にいい加減で、話し手の意図に反して発言の意図が簡単に変えられてしまう。そんな嘆きを含むがゆえの「暴力」という表現は、書き手としての言葉の選択と、受け手としての言葉の解釈が常に対等とは限らないことを示唆する。放たれた言葉の意味は一義的には書き手の意思に基づくとする傍ら、余白を意図せぬ色で塗りたくられるように都合のいい解釈をされたことは、誰しも経験があるのではと思う。

仕事では、そういった余白をどれだけ緻密にデザインできるかが問われる。

法律が抽象的な文言で書かれるのは、世の中が多少変わっても、最後の拠り所として揺るがずに対応し続けるためである。契約書や社内規則をつくるときも同じで、不確かな未来の確かな指針とするために、解釈の余地をどこまで残すかに思いを馳せる。些細な文言の差は、ときに未来を変える。

そう振り返るほどに、毎日どれだけ抽象度の階段を上り下りしているのだろうと思った。メールの一文。チャットの一言。書き加えては消すを繰り返し、階段のどこに両足を落ち着けるかに絶えず頭を悩ませている。

だが、その段に立つこと自体に意味があるのだと思うと、見え方も少し変わってくる。

余白をふんだんにあしらったメッセージには、広い空白部分に込められた書き手の意図が存在する。お茶を濁されたような抽象的な言い回しは、相手が今できる精一杯の約束だったのかもしれない。どうでもいいと適当に放たれた言葉にだって、諦めという意思が伴う。目の前に置かれた言葉には、その抽象度に託された意思が必ず込められている。

的確さ、わかりやすさ、あるいは美しさ。どの基準で言葉を選び取るにしても意思が介在するが、そこに抽象度という尺度を当てたとき浮かび上がる意思に、矜持と責任はあるか。その問いの答えの抽象度もまた、今の自分との約束に他ならない。



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