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メモを手書きで取ったら、久しぶりに絵を描きたくなった

明日から梅雨入りすると聞いたので、電車に乗って出かけてきた。バッグの中には色鉛筆とスケッチブック。そう、絵を描いてきた。

金曜日、仕事の研修に参加してきた。テーマはデザイン思考。社外の人と意見交換しながら見えないゴールに向かっていく時間は、刺激的だった。デザイン思考についてはまだ修行中なのだが、ひとつ確かに感じているのは、自分はやはり言葉に頼りすぎているということだった。

小さい頃は絵を描くのが好きだった。働き始めてからは専ら文章のデザインばかり考えている。文章を書くのが好きで、言葉や言語に対する興味があるからだと思っていた。研修前に読んだ本の次の一節に出会うまでは。

子どもは誰でも絵を描く。しかし、言葉重視の論理的な大人へと成長していく過程で、絵を描くという初歩的な能力を忘れてしまうのだ。

デザイン思考が世界を変える〔アップデート版〕: イノベーションを導く新しい考え方

シンプルな答えに頷くしかなかった。仕事では多くの人を動かす必要がある。だから論理を使う。言語の壁を抜きにすれば、論理は、相手が基礎的な言語能力さえ有していれば伝わるから便利だ。

便利なものには、必ず副作用がある。

研修は終日オンラインでの実施だった。普段ならOneNoteなどでメモを取るようにしている。この日は珍しくノートに手書きでメモを取ってみたところ、同じ文章を書いていても色々と違いがあると気づいた。

ひとつは、いつもよりうまく要約ができること。筆記はタイピングより遅いから、メモの分量は少なくなる。一方、情報を取りこぼさないようにという意識が強まるからか、書き留めた文章は短く、単語やフレーズのメモも普段より多かった。

タイピングならPCに打ち直す必要もないし、なまじ議論に近い速度で記録を残せてしまうから、どちらかというと議論の原型のまま残そうとする傾向にある。文字数制限があると要約せざるを得ないのと同じで、時間(速度)にも限りがあると必然的にエッセンスになるらしかった。上で紹介した本でも、適度な制約が創造を生むと書かれていた。

とはいっても、言葉だけでの記録には限界がある。それに、紙のノートはテキストエディタよりずっと自由だ。

だから、書き留めた文章やフレーズには波線を引いたり、矢印や吹き出しを付けたりした。ときには図やイラストも描いた。画面上に言葉が並んだ詳細なメモの方がよいと思っていたが、ノートの余白を泳ぐ魚の絵(わけあって研修で魚の話が出た)を見返していたら、文章であれば残ることもなかったであろう記憶があったと知った。

余白を泳ぐ魚(目が死んでる)


偶然にも、ぼくがそんな研修を受ける数日前、妻が友人と「Artbar」に行って絵を描いてきた。お酒を飲みながら絵を描けるという、しあわせが掛け算された遊びだ。初心者には少しハードルの高い油絵も、丁寧に教えてもらいながら描けるから楽しいらしい。

そういうわけでいそいそと色鉛筆とスケッチブックを買い込み、今日のお昼、電車に揺られてきれいな景色を探しに行った。

河原の景色を描こうと向かったのは高台の公園。いまいち映えないので別の駅まで足を延ばし、何気ない街並みを描くことにした。ヘッダー画像が、そのデッサン段階のもの。色を塗ったら微妙な感じになったので、敢えて線描のままで載せることにした。

ちゃんと絵を描いたのは何年ぶりだろう。遠近感を取るどころか、まず線を引くのが難しかった。色をきれいに乗せられなかったのが悔しい。線描はペンの方がよかったんだろうか。ここ、もっと違う色にしたかったな。そんな風にあれこれ考えてしまうのだから、どうやらぼくは絵を描くのが好きらしい。

デザイン思考を学んだら、手書きのメモの良さを思い出して、絵を描いた。なんだか随分と短絡的な気もするが、ただ繰り返すだけの日常にちょっとしたアクセントをつけられるのが研修の意義だと思っている。

今日絵を描いた話はこうして文章になった。でも、どう頑張っても絵そのものを文章に変えることはできない。言語化できないから良いのだと思う。いつでもどこでもテキストを書き留められる時代だからこそ、言語化できないものの価値が高まっているのかもしれない。

たとえ鉛筆で描いただけのモノトーンのイラストでも、言葉や文章に頼りがちな日々に彩りを添えることはできる。たまには手書きのメモも悪くない。あと絵を描くのは、やっぱり楽しい。


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