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【エッセイ】人生の意味と目標(1)


かつて私には目標があった。
いまも目標はある。
しかし、以前の目標と今の目標は内容とスケールが違う。
生きていく中で、状況にあわせる形と方向で
自然と変わってきたのだと言える。

子供たちの誕生は大きい。
いい意味で、それまでの価値観をひっくり返した。
子供がいない時は自分と妻、および
抽象的な意味での世界の諸問題が自分の軸であった。
子供ができると、子供が第一になった。
今、目標の中心には子供がいる。
つまり、子供が幸せに育つように
親としてしっかりやることが目標の一つである。

だが目標は一つとは限らない。
いや、複数あった方が気持ちとしては楽だろう。
子供は時間が経てば大人になるのだから
親の役目は徐々に減る。
子供を育てることが人生の唯一の目標だと
子供の独立とともに私はもぬけの殻になってしまうだろう。

私はまた世界に興味を持つことができるだろうか。
ここで言う世界とは、自然、文化、絵、文学、政治経済などの全てである。
私は色々な事に興味があり、アメリカの有名大学で博士号まで取ったので
知的好奇心は旺盛だったと言える。自分の専門に関しては専門性もある。
そして世の中を良くしたいという強い思いがあった。
しかし、今はもう世界にあまり興味がない。
大体こういうもんだろう、ああいうもんだろう、と処理する。
もちろん世の中はまだ知らないことだらけだから
傲慢にも全部知っているよと言っているわけではない。
知らないことが多いが、知ったところでそれが何だ、ということである。
みんなの力で世の中を良くできないと言っているわけでもない。
人はお互いの役に立つことができるし、それは大事だ。

しかし個人的な問題として、
そのような思いが自分の原動力として
どんどん働かなくなってきた。
仕事も最小限のことをやるだけで
ほどほどに済ませている。
美しい姿勢とは言えないだろう。
自分でも分かっている。
だから私は金銭的余裕を達成したら今の仕事をやめて
そのポジションをやる気のある他の人に譲るべきだと思っている。
ただしその金銭が目標値にまだ達していないのでなかなか実現しない。
だから目先の目標は、仕事をやめても家族を末永く養える水準まで
お金を増やすことである。これははっきりしている。
しかしそれを人生の目標とは言わない。

金銭的な余裕を獲得しても、その後も人生は続く。
いや、明日事故で死ぬかもしれないし、
病気で来年死ぬことだってあるかもしれない。
だが長生きする可能性だってある。
私は何を目標にすれば良いのだろう。
いや、そもそも論を言えば、
目標を持たなければならないということもない。
ある観点・前提からすれば目標を持った方が良いとなるが、
そのような観点もよくよく考えると別に必然性はない。

これはニーチェの言うニヒリズム
(拠り所となる信仰や思想などの価値観を持たないこと)に近いだろう。
しかし私は大学生の頃からある程度はニヒリズムで、
それは今になって始まったわけではない。
ニヒリズムは十代のころから続いていたが
ここ数年でそれが異常に強くなったのはなぜか。
自省してみると、
おそらく大きな目標を失ったからに違いない。
壮大な目標があったが、
自分にはそれを成し遂げるパワーがないと諦めたのだろう。
自分に長所はあると自負しているが、
人前に出て推し進める推進力がないのが致命傷であり、
その他にも色々重なって、結果的に成し遂げられない。
だから何をしてよいか分からなくなった、ということだろう。

では、目標を持たなければならないということもないのに
どうしようかと悩んでいるのはなぜだろう。
おそらく、大きな目標を失くした後、
それを埋めようとして
別の大きな目標がないかを探し、
それも見つからないから悩んでいるのだろう。
それが自省した時に見える自分の心の動きである。
何か大きな目標や生きる意味が必要だという考えを
ニヒリズムでありながらも完全には捨てていないから
大きな目標に代わる新たな大きな目標を探しているのだろう。

しかしそこに出口はない。
ニヒリズムを突き詰めればそこに出口はないのである。
私は長年多少のニヒリズムであったが、
ようやく本当のニヒリズムになったのだ。
ではニヒリズムでも見出せるものは何か。
ニーチェ自らが見出した「力への意思」、「超人」は答えになるのか。
私はかつてそうかもしれないと考えたが、
今ではそれは答えにならないと思っている。
つまり、意味など問わずに生命力と創造力を爆発させることは、
大きな意味と目標を問わずにやることであり、
ある意味、それらの価値基準を他人ではなく自分が
はじめて作っちゃいましょうの勢いでやることであるから、
一見、ニヒリズムの克服に見えるかもしれない。
しかしよくよく考えてみると、
それは克服ではなく、無我夢中になれば、
その根拠の無さをその間だけ忘れられるという話にすぎない。
酔いから覚めれば、また問題に直面する。

ではどうすれば克服できるのか。
それに対しても、
克服しなくたっていいじゃないかと言うこともできるだろう。
しかし人間は、意味を問わざるを得ない。
意味にあわせて目標を設定せざるを得ない。そういう動物なのだ。
超人になろうとしても、無我夢中になっても、ふと覚めるのだ。
時間が経ったらお腹がすくように、人間は意味を問うてしまう。

大きな目標と意味を探すことに出口がないのならば、
残された道は、
小さな意味と目標を楽しむことにあるのではないか。
意味と目標を探すことはやめられらないが、
大きな意味と目標には答えがないというなら、
小さな意味と目標を探すしかないだろう。
つまり、日常の小さなことを一秒一秒
噛みしめて生きるしかないのではないか。
自分の周りの小さなことをやり、
それが大きなことにつながることもあるかもしれないが、
それは成り行きであり、
自分はあくまでも目の前の小さなことを
じっくり味わいながら生きていく。
それが現時点で私が見出した人生の目標である。



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