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✩ 文学夜話 ✩ ニーチェ『ツァラトゥストラかく語りき』の文学的・哲学的問題点


とある理由で、ニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』を約二十年ぶりに再読しました。ニーチェ哲学に関する書物はその後も読んできたのですが、この書物の再読は大変なので今まで避けてきました。

二十年前に読んだ時、私はこの書物に違和感を覚えましたが、当時はその理由をうまく整理できませんでした。今回は違和感の正体が分かったので、そのお話をしたいと思います。

これは私の違和感ではありますが、同じような理由で読み進められなかった方が他にも多くいらっしゃるかと思います。その違和感に客観的な文学的・哲学的な理由があるとすれば、それについて考えることは、良い文学とは何か、良い哲学とは何かを考えることにもつながると思います。

ではその違和感の正体についてお話しします。

それはずばり、物語を、そしてその中に出てくる他者を、自分の哲学形成のきっかけとするのではなく、すでに出来上がった哲学を説明するための道具にしていることです。つまりこの書物では、他者との衝突・交流を通して哲学が生まれ、浮かび上がるわけではありません。そうではなく、伝えたい哲学がまず先にあり、その概要がまず提示され、次に登場人物たちの独白・衝突・交流を通してそれをより詳しく説明しようとしているのです。物語も、その中の他者・大衆も、自分の哲学の意味を伝えるための道具に使われています。

そしてそれは、二つの問題を引き起こしています。

一つは物語としての問題です。登場人物たちは、意図した哲学に従属する形で言葉を発し、動くため(セリフを言わされ、行動させられているため)、より複雑で自由であるはずの存在の生々しさを失います。言い換えると、出来事や登場人物たちは物語の主役じゃないので(主役は哲学です)、各々の個性・特殊性の面白さ、それらの間で起こる相互作用の面白さを引き出すようには書かれていません(ツァラトゥストラだけは超個性的ですが、その他はそうではありません)。つまり、物語風に書かれているのに、物語としての面白さが削がれています。

世の中の童話・寓話も教訓を伝えるために物語を利用しているではないか、でもそれらは面白いではないか、と疑問に思われる方もいるかもしれません。確かに、それらも教訓を意図しています。しかし世の中のほとんどの童話・寓話は『ツァラトゥストラかく語りき』と違って、まず物語を展開します。まず登場人物たちの言動があり、相互作用があります。そして相互作用の結果によって最後に教訓が自然と浮かび上がります。多くの文豪の小説もその順番です。他方、『ツァラトゥストラかく語りき』では、最初から、物語が進む前から、そして物語が進んだ後も途中途中で、伝わるべき哲学(教訓)が提示されます。哲学を伝えようと出来事と登場人物たちを操っている感じが強く出てしまうのです。

もう一つの問題は、哲学としての問題です。この書物の本質的な部分は物語ではなく哲学なのだから表現されている哲学の方が大事、という意見もありえるでしょう。しかし、哲学としても大きな問題があります。問題点と良い点は表裏一体になっているので、まずは良い点を説明します。

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