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日本の戦時下における英雄から学ぶ道徳教育がありました。楠木正成や東郷平八郎は代表格です。いわゆる皇国史観に叶うものが正義であるという規定です。
戦後においてもその規定は応用変化しつつも軸として、国民が好むセオリーと理解して良いと思います。英雄伝から抜け出せないストーリーテリング、一視点しかない正義の限定です。
日本の歴史ドラマを観ていると、その一視点で正義と悪を分けて描いていく、視聴者には分かりやすく捉えられる、その主旨に添うことが殊更に重要視されているように思われます。故に主人公は品行方正に描かれ、毎度出来すぎた人格者が登場するのです。

最近はご無沙汰ですが、海外ドラマを観ていると主人公含めて登場人物たちが、良いところ悪いところ持ち合わせたきわめて人間らしく描かれているのです。視聴者はある意味、ドラマ世界観に振り回されながらも、しっかり感情移入させられています。

日本の特に歴史ドラマには本音と建前における建前のみでイメージ先行型をどうしても保守したい意向が強いのではと考えます。
その秩序の基となった起源を私は明治以降と見ます。‘日本の新しい夜明け’と総称されてはいるものの、明らかに外様大名の薩長による軍事クーデターで新政府は樹立された訳です。見せ方として‘日本の新しい夜明け’とする事でこれは正義の流れにあったと、結局勝てば官軍というこのフレーズはその事そのものを表したある種の川柳にも似た風刺としか捉えられません。

私見ではありますが、明治以降で英雄論的な二元化したものの見方、複雑化できない登場人物のパーソナリティー、建前でひたすら突き進む歴史ドラマの概念に陥ってしまった理由の発端はそのタイミングが強いと感じます。
確かにこれは世界史にも言えるのですが、正史と言われる歴史書は勝者の歴史を綴り続けたものであります。いかに己の正統性を理解してもらうか。その主旨が全てです。

ただ最近はかつてならば、悪役で終始した人物が「実は…」的な視点を取り入れて、主役で語られる事もまま見受けられる点は良い事だと思うのですが、複眼的な人間描写に優れているかどうかは微妙と言わざるを得ません。そうして考えると、私には比較的好まない定型的な人物設定に破綻のないストーリーが一般的に評価が高いとしたならば、こと歴史ドラマについては現状維持路線は揺るがないのでしょう。
ある意味では失われた30年とも云うべき平成から現在に至る過程において、テレビであれば視聴率を、映画であれば興収からDVDへの二次利用をと、一重にマーケティング至上主義の顛末が現在目にするコンテンツの有り様だと捉えられなくもありません。

一つだけ言えるのは、人間は複雑であり、立場によってそれぞれの正義があり、表現者は深くその意味を理解する必要があるということだけは確かだと言えます。

消防団による消防訓練の様子です。
訓練から数日後、プロモーションの撮影を行いました。真剣さと情熱が伝わるものになるかと思われます。いつも思うのですが、市井の人々の生きる風景にはダイナミズムがあります。

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