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『Wavelength』

波をみた人


有名企業や銀行がずらりと肩を並べるベイ通りには、隣接する賑やかなヤング通りとは対照的に、閑静な佇まいがある。いつも五時を過ぎると人がめっきりいなくなり、通りを見下ろす旧市庁舎の時計塔だけが律儀に鐘の音を響かせ続けている。黒服のベルボーイと赤い松明が出迎えてくれる五つ星ホテル、セント・レジスの壁面には、一月に他界したマイケル・スノウによる公共アート「Lightline」が隠されている。暗くなると菖蒲のような紫色の光を放って、夜空に線を引く、巨大な作品だ。しかし、人の多い日中はただ壁の一部にしか見えない。

前衛美術の巨匠として世界中で愛され、研究されてきたスノウは1928年、トロントで生まれた。彼のトレードマークともいえる「Walking Woman」を使った展示物や、トロントで結成されたジャズバンドCCMCを始めとした音楽活動、ニューヨークに拠点を移して撮影された『Wavelength/波長』といった映像作品で知られている。とりわけ1967年に発表された『Wavelength』は前衛映画の定義そのものを揺るがし、現在でもトロント国際映画祭ではアート作品を取り扱うカテゴリの名称として使われるほど、映画界に大きな影響を与え続けてきた。

大きな窓。映画『Wavelength』は、窓辺で人がラジオを聴いたり、突然倒れたりする様子を映し出す。窓の周辺は動き続ける陽によって色彩や明度を変えている。画面が窓に向かって近づいていく度、どこからか聞こえてくる機械音も速度を速めていく。カメラはズームインを続け、やがて窓の間に貼られていた海の写真が画面いっぱいになる。

およそ四十五分間の作品は数週間かけて撮影されたが、アイデアをまとめたり技術を確立するのに時間がかかったため、発案から制作まで二年ほどかかったという。海の写真、正弦波、カメラのズーム、それを見る観客の視点、流れていく時間。本作は様々な流動性を捉える。例えば、窓や部屋という三次元のものはフィルムの表面に焼かれた四角い形として二次元のものへと姿を変える。カメラはズームを使って前から後ろへと移動するし、それによってフィルムに映っているものは過去から未来へと移動する。

スノウ自身の言葉によれば、「本来ならズームとは何かに近づくためのものだが、これはズームを見せる映画」なのだという。映画制作を始めたときからずっと人でなくカメラそのものを物語として扱いたかった、というスノウの思想がよく表れている作品だ。他にも、普通なら長く見つめることはないものを見せるためにスライドショーを制作したり、通常カメラが左右するパンという技法を再現するためにセット自体を動かしたりと、スノウの映像作品にはいつも刺激的な驚きが潜んでいた。

ここに一枚の写真がある。昼間の「Lightline」の写真だ。夜は一体、どんな風に見えるのか。それはいつかベイ通りを歩く機会が訪れたときに、自分の目で確かめてほしい。美術界に大きな波風を立たせたスノウだが、わざわざ美術館を訪れない限り、自分の作品にたまたま出会うことは稀だとこぼしたこともあった。それでも多くの作品は今でも街角に存在していて、人々が目を凝らす瞬間を待っている。

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