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食べる小説 江國香織「きらきらひかる」

江國香織さんの『きらきらひかる』は私にとって特別な作品だ。
江國香織さんの『きらきらひかる』が、私が初めて読んだ小説だった。

12歳の時に古本屋で文庫を手に取った。なぜ『きらきらひかる』の文庫を手に取ったかは、それはそれで別の、捉えようによってはまぬけなエピソードがあるのだが、それは秘密。

それまで弟と一緒に絵本ばかり読んでいた私には、『きらきらひかる』はあまりにもセンセーショナルだった。

同性愛者で恋人がいる夫と自称アルコール中毒者の妻の物語。
どっちも、12歳の私の周りにはいない人だった。
間違って買ったということもあって、なんだかイケナイものを買ったような気がして、布団の中でこっそり読んだ。あれから20年近くたった今でも、私のエロスの基準が、本作のキーパーソン・紺くんにあるような気がして、すり込みって怖いな、と(にやにやしながら)思う。

さて。
『きらきらひかる』はそのように私の人生における重要な本なので、印象深いシーンはいくつもあるのだれど、その中でも私が好きだったのは、主人公夫妻の自宅で行われた飲み会のシーンだ。

 笑子はミントジュレップをつくってそれぞれの前におき、それからバーボンの瓶をテーブルのまんなかにどんっとおいて、
「おかわりは御自由にどうぞ」
と言った。(略)そして笑子が大きなカゴに山盛りの野菜を運んで来たときには、そこにいた誰もが口をあけた。にんじんや大根はかろうじてぶつ切りになっていたものの、きゅうりもレタスもまるのまま水をしたらせていたのだ。
「だって、お酒を飲むとものすごく野菜がほしくなるでしょ」
(略)
「笑子さんのからだは、きっと素直なんですね」
樫部さんが言い、僕たちはひどく驚いた。この人が自分から喋ることなどめったにないのだ。
「お酒はからだを酸性にしますからね。野菜はいいですよ、お酒を飲むとき」
 笑子は、今夜はじめて心から嬉しそうににっこりした。
(平成6年 新潮文庫 p61-63 一部引用者により省略)

下戸の両親をもつ12歳には飲み会が何たるかを知る機会はなかったので、長くこのシーンが私にとっての宅飲みのお手本だった。飲み会たるものがこんなにも優しい世界なら、と飲めない両親を恨むほどに羨んだことがある。お酒のある世界は、こんなにも優しくて幸せなのに、と思っていた。私もしっかり両親の血を引いて飲み会に縁のない大人になったけれど、今でも「飲み会」といって想像するのは、これまでに参加した数少ないリアル飲み会の思い出ではなく、『きらきらひかる』のこのシーンだ。

印象的なシーンは物語の後半にある、と思い込む癖があって、今回引用するにあたり本文201頁のなかから上記該当頁をなかなか見つけることが出来なかったことを告白しておく。
しかし、そのおかげで全体を再読することが出来、新たな発見も多く得た。

上記引用シーンに限らず、この小説には食べるシーンがたくさんあった。

主人公・妻の性質上、お酒を飲む描写がたくさんあることは覚えていたけれど、全12章各章で食べるものの話をしている。
お酒の名前はともかく、12歳の子どもでも知っている食べものばかりだった。今思うと、それがこの、当時の自分には馴染みのない性質の人びとばかり出てくる小説と、私自身を繋いでくれていたのかもしれない。この人たちも、私と同じものを食べている、という共有意識だ。

この共有意識は、他の場面、大人の性生活の描写にも芽生えていた。
それは、主人公・夫とその恋人・紺くんが二人で過ごしている真夜中の描写だ。これは、生々しく言えば同性愛者の情事の後の場面だ。まさにその場面は書かれていないが、それより前の章でも「セックス」という言葉が連呼されているシーンがあって、ますます布団の奥にもぐりこんだのを覚えている。

しかし、読後に感じていたのは、「なーんだ」ということだった。

なーんだ、セックスって、何も特別な事じゃないんだ、と思った。
ご飯を食べることと同じ温度感で、大人になったら、相手が出来たら、自然と生活の中に組み込まれるものなんだと、その時思ったのだ。
初潮が来る来ないという年齢で、学校ではまだ男女別の性教育授業を受けていた。私の周りの子は知っている単語を並べて大げさにはしゃぎまわっている子が多かったけれど、そんなに特別な事じゃない、と腑に落ちたのだ。

たった一冊で、こんなに学ぶことが出来ていたのだな、と我ながら感心する。
本を読むことが習慣になっていても、仕事の忙しさや他の娯楽に時間を割いてしまって、一日の中で読書に充てる時間は年々短くなっている。小説を読んで、何を得るものがある? というお馴染みの問いに迷った時期もあった。でも、すでに答えは、最初の一冊の時に体得していたのだ。

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