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ジェノヴァの雨

この記事は雑誌『1番近いイタリア』巻頭エッセイの抜粋です。

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ジェノヴァの雨

過ぎ去った嵐の後の静けさの中で筆をとる。日に日に増す暑さが体にまとわりつき、これでは頭も怠けてくる。まぁそれも良いかと思いつつ、エスプレッソに氷を注ぐ。アルバムをスクロールし、2ヶ月前の写真を眺める。まだ長袖を着ている私たち。食べ物を前にした無邪気な笑顔、恥ずかしさにぎこちない笑顔、たわいもないことに笑うくつろいだ笑顔。たった2ヶ月前のことが、すごく遠く感じる。この間に私は歳を一つ重ね、大きな決断を一つ、二つして、大雨を降らす嵐の中をなんとか生き抜いたからだろうか。

「ジェノヴァに行こう」というのは唐突だった。一緒にいるダリオが、連休に同居人ディエゴの地元ジェノヴァを訪れようというので二つ返事で頷いた。あまり感情を表現することがないダリオが、毎日のようにジェノヴァ楽しみと言っているので、私も楽しみだった。出発の金曜日になると、鼻歌を歌いながら車で食べるパニーニを用意して、荷物を積み、いざエンジンをかけた。運転できるのはダリオだけで、免許を持たないレアなイタリア人のディエゴは、後部座席で長い足を伸ばし、私は緊張の面持ちで助手席に座った。出発2分後、道を間違えた。訳のわからない高架道路をぐるっとして、出発点に戻ってきた。気の短いダリオだけが大きなため息をし、マイペースなディエゴは後ろで悠々と買ってきたアランチーノを頬張り、何事もなかったかのように喋っている。再出発。ボローニャ、モデナ、パルマを抜けると、道は少し山道に差し掛かり、緩やかなカーブが続く。途端、運転手が「なんだこの道は。道が悪すぎる」と言い始める。いや、普通だけども。。運転手を気遣って黙っている私の気持ちを代弁するかのようにディエゴが「いや、普通だよ。ダリオがポー平原に慣れてるだけ」と言い放つ。フェラーラ出身のダリオは、イタリア最大にして、最低海抜を記録するポー平原で生まれ育ったのだった。ポー平原を走り慣れた車も悲鳴を上げたようで、サービスエリアで油を入れたら、少しは気を取り直して走っていく。トンネルを抜けると横雨が降ってきて、私たちは急いで車の窓を閉めた。そうこうしてジェノヴァに着いた頃にはすっかり夜になり、ディエゴのお母さんと、93歳のおじいちゃんと、13歳の妹と、3歳のワンコの温かい歓迎を受けた。

次の日はダリオと海沿いを電車で南下し、ノンノの待つレリチへ向かった。愛称ノンノ、1970年に20歳の時にイタリアに来て、以来、日本とイタリアを行き来して大理石の事業をしていた鈴木社長を、私は親しみを込めてイタリア語でおじいさんという意味の「ノンノ」と呼ぶ。ジェノヴァから電車に乗ろうとして駅に着いたが、電車が遅れていた。朝食で喧嘩した上に、小雨が降る。仕方がないので、下ってきた道をもう一度上がって近くのバールを探す。道の木々にオレンジがたわわになっているのを見て「オレンジを1つ取ってくれない?」と聞いたら、木に登り、雨に濡れた木が揺れて雫が落ちる中、1つ取ってきた。剥いて食べたオレンジは、経験したことないくらい酸っぱかった。

ジェノヴァを出て、ラパッロで途中下車した。かれこれ5年前、はじめてイタリアを訪れた時に来た町だった。あの時は、イタリアに魅せられて、帰りの航空券を捨てて、大学の卒業式の2日前までイタリアにいて、その時にふらふらと周遊してポルトフィーノに来た時に、ポルトフィーノのホテルがあまりに高くて泊まれなくて、少し手前のラパッロに宿泊したのだっけ。全然知らない町だったけど、カラフルな町が可愛くて、シーズンオフの2月は落ち着いていた。イタリア語の話せない私の手を引いて、「ピザが食べたい」と言う私の願いを叶えようと、地元で一番という「ピザ」のお店に連れて行ってくれたのだった。イタリア料理をもう少し知る今から思えば、あれはピザではなく「レッコ風フォカッチャ」で、薄い生地に地元のチーズを挟んで焼き上げ、パリッパリの生地にナイフを入れるとチーズが溢れ出す、リグーリア州の名物だった。そんな思い出のレストラン通りは変わらずにそこにあり、シーズンが始めりかけたこの日は観光客で賑わっていた。突然、雨が降り出し、雨宿りにバールに入って2杯目のエスプレッソを飲む。私は晴れ女なのに、フェラーラの霧男に負けたかな、と思っていたところ、傘を2つ持ってきたダリオに、少し感動を覚えた。

ラスペツィアに着くと、ノンノとジージが私たちを迎えてくれた。ジージは、ノンノの何十年来の友達で、ノンノよりもさらに10歳年上の建築家で、本当はイレノと言う名前なのだけど、私は親しみを込めて、日本語のジージと呼ぶ。物腰柔らかく、いつも微笑を浮かべた朗らかさと経験に裏打ちされた教養の持ち主だ。そんな、誠に不思議な四人組で海沿いのレストランで昼食を頂いた。まず運ばれてきたムール貝が、大皿に溢れんばかりに盛られているのをみて、私は「ユートピア!」と嬉々として声をあげる。新鮮そのものの貝がさっと白ワインで蒸されて、レモンとイタリアンパセリの爽やかな香りに、地元の白ワインがピッタリあって、止まらない。プリモは海の幸のテスタローリを選んだ。クレープのように焼き上げたパスタ生地に、旨味たっぷりの海鮮のスープが吸い込み、えもいわれぬ美味しさだった。会話は進み、食事は進み、近海で獲れた冷凍しない天然マグロの炭焼きが出てきた頃には、芳しくない天気の重たい雲はいざ知れず、温かい晴れやかな空間に身を包んでいた。

ジェノヴァに戻り、次の日は、ディエゴとその友人と私たちで山の上のレストランに行った。ジェノヴァでペスト・ジェノベーゼを食べるのだと意気込んでいた私は、プリモは一択。これが、また絶品で。本物のペスト・ジェノヴェーゼを初めて食べた感動に浸っていた。山を降りて旧市街を回る。旧市街にはジェノヴァの生きてきた足跡がありありと残っていて、金融業で栄えた過去の栄光も、娼婦街が伝える港町の宿命も、汚れた海で小魚を釣るアフリカ人が映す現在も、複雑なジェノバを物語る。雨雲の下の、ディエゴの横顔を見上げる。深くは知らないけれど、この32歳の優しい顔に潜む影は、影なのだろうか。家に帰ると、ディエゴのお母さんが料理を作って待っててくれて、妹と犬が私たちに飛び付いてくる。おじいちゃんには、朝からディナーでは隣の席に座るようにと言われており、その通りに席に着く。宴もたけなわな頃、お母さんが「子供の頃の夢は何だったか、一人ずつ言っていこう」と突然のお題を出す。真剣に考えていたらディエゴが「ウェイターをやってのほほんと生きたいと思ってたから、その通りになった」と言い、みんな笑う。「では、今願いが3つ願いが叶うとしたら?」と別のお題が降ってきた。私も、恥ずかしがるみんなが言うように、本当の願いは自分の中にしまっておいた。

目を覚ますとフロントガラスに大雨が降り注ぐ。濡れる窓ガラスからうっすらとボローニャを指す道路案内が見える。あぁ、帰ってきたんだ。お土産に買ってきたペスト・ジェノベーゼをしっかりとカバンにしまって、車を降りる。それから3日間、雨が降り続けた。翌週には世界のニュースになる大洪水を招く大雨が来た。5月と言うのに肌寒く、太陽が顔を出しては引っ込む日々。季節が移りたいのに移りきれないようで、夏を待つ私たちを焦らしながら、歯車は回っていく。それでも「やまない雨はない」と言うのは不変の真実で、こうして今、嵐を乗り越えた後、照りつく太陽が空気を熱す中、暑さに不平を言いながら、少しずつ焼ける肌色を見ながら、キーボードを打つ。雨降って地固まる。本当の太陽は、困難から逃げず、時に泣き、時に笑って乗り越えていく力なのかもしれない。

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