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堺のそば屋とヴェローナのトラットリア:郷土料理が郷土料理である証拠

3年半前の話、ヴェローナにいた時の話である。

晴れた2月の日の午後だった。身体が冷え込んだのでバールに入り、カプチーノを頼んだ。午後にカプチーノを頼む私は、間違いなく外国人観光客だった。

バールの店主は気さくで優しいおじさんだった。この土地のおすすめを聞くと、’観光客’の私に「馬肉煮込みのポレンタ」を紹介してくれた(今でこそ知っているが、馬肉もポレンタも、ヴェローナの押しも押されぬ名物である)。

両方はじめての料理名で、どんな料理なのか想像もつかなかったが、地元民が行くというトラットリアの名前と、この料理名をわざわざ紙に書いて渡してくれたので、とりあえず行ってみることにした。

店に入ると、みんなそれを食べているようで、私もその料理を頼んで、少しすると湯気を立ててやってきた。

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食べてみると、それほど感動するものではなかった。

ポレンタは形容しがたいヌメっとしたもので、馬肉煮込み(パスティサーダ)はしょっぱくて味が濃く、馬肉であるかどうかも分からなかった。

ところが、これがここの人には愛されているらしくて、みんな楽しそうに名前のないワインをガブガブ飲みながら、私より大盛りのものをペロッと食べていた。

当時は、土地が変わると人の好みも変わるものだと、納得したような納得しないような気分になったものだ。


それが、先日、赤瀬川原平氏による「千利休ー無言の前衛」という本を読んだ時に、点が線で繋がれる感覚がほとばしった。

映画「利休」の脚本の執筆をきっかけに編まれた本だが、その中で次のような話があった。利休屋敷跡を訪れた後、堺のそば屋に寄った時の話である。

みんなが食べているもりそばのようなものを注文すると、湯気を立ててやってきた。そばの入れ物もおつゆの入れ物も、ほかで食べるのとはどことなく勝手が違う。食べてもそれほどおいしいとは思えなかった。でもこれがここの人々には人気らしくて、みんなおかわりしたりしている。何か楽しそうに喋って食べている。やはり堺だなあと思った。何がやはりなのか自分でもわからないが、ふっと昔から細く繋がる湯気みたいなものを感じたのである。

なるほど、と思った。やはり言葉では形容し難いのだが、これが郷土料理が「郷土料理」である証拠だと思った。

今日はじめて食べたよそ者が理解できない食べ物こそが、真の意味の郷土料理なのである。

考えてみれば自然なことだ。食材も調味料も味付けも異なる環境で育った人間が、即座に理解できるほど、食は画一的ではない。(と信じたい。)

もちろん、観光客やはじめての人にも分かりやすく美味しいものを作るのも1つの大切な技術。

しかし、「これが俺たちが食べて育った食べ物なんだ」という強い主張が聞こえるような、引いたり媚びたりしない、コテコテの郷土料理の凄みは、何ともいえない迫力を以て、記憶に残る。堺のそば屋の話で思い出されるポレンタのように。

私は昔からツンデレに弱いので、そういう郷土料理にキュンと来てしまう。

次にヴェローナを訪れる際は、やはりもう一度「馬肉のポレンタ」に挑みたい。

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