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振袖が着たくなくて、成人式に行かなかった


振袖が着たくなかったから、成人式に行かなかった。

 なんで着たくないの?
分かんない。でも、どうしても着たくない



振袖姿の成人を見るたびに思い出す

 つい先日、少し年上の友人と話す機会があって、こんな会話をしました。
成人の日が近かったから、その話題になった時のこと。


「私、成人式いかなかったなぁ」
『一緒(笑)私も行ってない』
「振袖、着たくなかったから」
『うんうん。私も着てないよ』
「成人式って絶対みんな行くのにね」
『うん。でも、成人式いかなかったけど、お互いちゃんと成人だよね』



成人式で振袖を着るルーツ

成人式で振袖を着るルーツ
 成人式に振袖を着る理由は振袖が「未婚女性の第一礼装」とされているから 成人式に振袖を着る理由は、明治時代以降、振袖が「未婚女性の第一礼装」として定着しているからです。 ... また、美しく華やかな晴れ着である振袖を着ることで、親や周囲の人へ成長した姿を見せ、感謝を伝えるという意味合いもあります。

引用元:webサイト FRISODE LABLISS 『成人式に振袖を着るのには意味がある!ちょこっとタメになる知識を紹介♪』



成人式に参加しないという選択

 25歳になった今ですら「成人式に行かなかった」的なことをちょっとでも漏らすと、いろんなことを言われたりする。


例えば、「成人式は今まで育ててくれた親への感謝の気持ちを表すものだからねぇ」とか、「成人としての自覚を担うのに必要な儀式だよ」とか、「成人式に行ってないなら、いつまでも成人になれないんじゃない?笑」とか。

そんなの人によって色んな事情があるじゃん、って思いながら聞いている。


(あ、全然関係ない話だけれど、「最近、太った?」とか無神経に言う人も、どういう心理でわざわざその言葉を口から出すの??? なんて思ってしまう)




「親御さん、内心は残念がってるはずだよ」 という言葉

 当時、一番よく言われたのが「成人式に行かないこと、親御さん、内心で残念がっていると思うよ」という言葉。

同級生の親から何度も言われたので、さすがに私も軽い気持ちで考えていたことをちょこっと反省して、親にきちんと話してみることに。

「あの……、成人式いきたくないから、たぶん行かないと思う」

内心ドキドキしながら話してみると、全然オッケー! みたいな反応。
こっちが呆気に取られるぐらい両親的には全然オッケー、どっちでも好きなようにして良いよ、といった感じ。

とても気持ちが楽になった瞬間だった。


ついでに、いままで受けてきた言葉も一緒に伝えてみることに。
「振袖姿は親に見せるもの」「親御さん悲しんでると思う」「成人式に出ないと成人できない」などなど。

すると両親はこう言ってくれた。

成長していく姿を日々見てるわけだし、振袖姿も別にどちらでもいい。行きたくないなら、全然オッケー。そんなの、成人式に行ったからって成人できるわけじゃないし、成人式に行ってもちゃんと成人できてない人の方が多いから大丈夫(笑)

たしかに!(笑) じゃあ大丈夫だ、オッケー!と納得した私。

そんな感じで結局、成人式には参加せず、私は20歳を終えた。
成人式当日も、友人たちの派手な振袖姿をSNSで見てそれであっさりと? 気楽に終わった(たしか家族で美味しいご飯は食べに行ったかな)。



実は、行きたくない人も多いと思う

 ここまで書いて、成人式に行かなかった私ってどこか人と違うでしょフフン、みたいな そんなしょうもないことを言いたいのではなくって。

成人式はほんの一例に過ぎないけれど、周りの期待に応えて参加しなきゃ……みたいな行事や式典ってまだまだ沢山ある。

もう少し自由に、気楽になれば良いのにぁなんてぼんやり思ってしまう。



親の期待に応えて、我慢して成人式に行った友人

 また別の友人(同い年)と、成人式の話になったときのこと。

その子は意気揚々と、楽しんで成人式に参加したと私は思っていた。
でも最近、その子(「親御さんが悲しがるわよ」という家の子ども)がふと、こんなことを打ち明けて? くれた。


「そういえば私、成人式に実は行きたくなかったんだけど、親からのプレッシャーがすごくて……。だから親のために我慢して無理やり参加した感じだったなぁ」

そうだったんだ、実は行きたくなかったんだと、その時に初めて知った。

その子は我慢してまで、行きたくない成人式に参加していた。

理由は何にせよ、そこまで我慢までして強制的に参加しないといけないのかな、そんな強制は無くなれば気楽になるのにな、なんて思いながら聞いたのを今でも覚えている。



振袖を着たくなかった理由

 私が振袖を着たくなかった理由は説明するのが難しい。

でも、これが誰かの共感にでもなって気持ちが軽くなったら良いな、なんて意図も込めながら頑張って詳細に書いていこうと思う。



振袖を着たくない気持ち

 どうしても振袖を着たくなかった。理由は自分でもよく分からない。

振袖を着ないのであれば、スーツという選択肢もあった。
でもスーツで行くのもなんか違うくて。

みんなが振袖ウェーイ! みたいななか、わざわざリクスー(リクルートスーツ)の格好で参加するのも嫌だった。それでいて奇抜なスーツで参加するのも、そこまでして参加したいか??? ってなっちゃって、とにかく嫌だった。


 「なんでそこまで振袖を着たくないの?」と聞かれても、ただ着たくないからという理由に限るので、周りからの理解もあまり得られない。ここも苦しいポイントだった。

「女の子だったら普通は振袖着たいもんじゃない?!」みたいな、みんなにとっての当たり前は、私にとっては全然 当たり前じゃない。

でもそれを伝えようとしても、分かってもらえない。



ただ自分の内側から強く主張してくる「嫌だ」という気持ちは消えることがなかったので、それに従うことにした。

自分の心のなかにいる小さな子どものワガママを、たまには聞き入れてあげたい気持ちに似ているのかもしれない。



 振袖を着たくない理由を頑張って表現するのであれば、「女性」を典型的に表す服装がどうしても着られないというか、着たくない。
着ようとする瞬間からそれが窮屈で嫌で脱ぎたくてしょうがない。そんな衝動? に20歳の自分はもはや抗えなくなっていた。


物心つく前から、中性的なところがあった。だからかなぁ、なんて思うけれど、これ以上はもう自分だけにしか分からない気持ちなので説明しようがない。


もしかしたら自分が着るべき服を他の人に決められてしまう、そんな理不尽な窮屈さが耐えられないのかも知れない。

圧倒的大多数が振袖に身を包むなか、リクスーが少数派みたいな雰囲気も無くなって、ただ服装にも選択の自由があったら良いのにな。



誰に何を言われても、自分が着たくないものは着たくない。無理に着る必要もないと思うから、だってもう21世紀なんだし、着る服ぐらい自由に許してほしい。

そんなモヤ〜ンとした気持ちのなか、目に入ってきたニュース。

NMB48の木下百花さんが成人式にスーツで出席した姿。


他のメンバーが華やかな振袖姿で報道陣の前に立つなか、ひとりベージュのメンズスーツ姿(なぜこのスーツにしたかなどの経緯は記事に明記されています)

しびれた。


このニュースを見たのは私の成人年から数年後のことだったけれど、心のどこかが確かに救われた。

みんなが喜んで振袖を着て参加する式典に、出たくない着たくないと感じる自分はやっぱりどこかおかしいのかな、とか。何で振袖を着たくないのか自分でもよくわからない、といったモヤモヤした気持ちが晴れる心境だった。


さらに記者会見(映像)で百花さんは、
成人式ってみんな強制的に振袖! みたいな風潮あると思うんですけど、みんながみんな振袖じゃなくても、自分が着たい服を着たら良いと思うんですよ、と語っていた(はず)。


それを聞いて、当時の私は救われた。



さらに報道陣からは「成人式っていったら振袖を着たい人が多いと思うんですけど???」みたいな典型的な質問が飛び交って。

それをサラリさらりと笑いながら交わして、そんなの別にもう良くないですか? 時代とともに柔軟に変化して良くないですか? みたいに答える百花さんがとにかくカッコよくて。



こうやってメッセージ性のある行動に救われる人って実は結構多いんじゃないかな、なんて思いながら動画を見ていた。



 私も心のどこかでずっと、20歳だった自分の意思で決めたとは言え、あれで良かったんだろうか、やっぱり○○ちゃんのお母さんが言っていたように、私の親も成人姿(振袖姿)を見たかったのだろうか、なんてずっと思っていたから。



 そして、書きながら思い出してきたのでそのまま書いちゃうけれど、大学のゼミの卒業写真でも、女子のドレスコードはワンピースと決まってしまったあの日も、本当はパンツスタイルでカッコよく写真に写りたかった。



今でもあの日の写真を見返すと苦い思いが蘇る。だからほとんど見ない。
卒業写真を撮影する一日だけ自分の心を消し去って、帰宅後はなんの罪もないワンピースに当たり散らして、もう決してこんな気持ちは繰り返したくない、と心のなかで強く思ったのを覚えている。



みんなが当たり前と思っていること、それがたとえどんな小さなことでも(着る服ですらも)とてつもなく苦痛に感じる人もいる、ということがもう少し浸透していったら、この世は生きやすくなるのでしょうか。


 (木下百花さんの記事から一部引用)

 (前略)
父親への思いに続け、「母親は私がやることに対しいつも面白いと言ってくれます」と明かした木下。
「私は世間にどう思われようが自分が着たいものを着て自分のしたい事をした方が危なっかしくて楽しいと思ってます。自分の大切な人達、家族、自分の中の大切な事、それだけ守れれば後は好きな様にやるだけやで!」と信念を語っており
(後略)

引用元:モデルプレス『成人式で話題のNMB48木下百花、国鉄服チョイスの裏に秘話「かっこいい」「最高の親孝行」の声』



 大なり小なり何であれ、この世では「みんな」がやっていることを「やらない」とキッパリ断言した際には色んなことを言われてしまう。

 その発言は、いろんな立場の、いろんな価値観や感性を持った人から発せられる。

それらどの声を聞き入れても良いとは思うけれど、他人になにかを強制させるような声はやっぱり苦しい。

あなたにとっての当たり前は、私にとっての当たり前ではないから。



最後に

 今年の成人の日が終わっているタイミングで書いたこの記事。

どこかの誰かが、というよりはむしろ当時の自分を解放してあげるような記事になってしまったかもしれません。

でも、どこかの誰かの気持ちが少しでも軽くなったり、自分だけじゃないんだと少しの安心感を抱けるような、そんな風なこともぼんやりと思いながら書きました。


「私は世間にどう思われようが自分が着たいものを着て自分のしたい事をした方が危なっかしくて楽しいと思ってます。自分の大切な人達、家族、自分の中の大切な事、それだけ守れれば後は好きな様にやるだけやで!」
 
木下百花さんの発言から一部引用


成人式に行った人も、行かなかった人も、振袖を着た人も、振袖を着なかった人も成人おめでとうございます。



補足:

こうあるべきの押し付けや、当たり前という概念に少しでも「ん?」とモヤ流人にはこの本オススメです。(not ステマ)

『あの時も「こうあるべき」がしんどかった〜ジェンダー・家族・恋愛〜』


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