優しさを信じるために
僕は、自分がされて嫌なことは他の人にしたくない。
今までも何回か書いた覚えがある。
ただ、この考えが原因で、不安になることがある。
僕はよく師匠(※珍しくイマジナリーじゃないフレンド。創作の師匠)に、noteでこういうことがあった、こういうことを達成した、みたいな報告をしてる。
理由はいろいろあるんだけど…。
〈構ってほしいんでしょ〉
それもある。
他にも、単純だけど、師匠はこういう話を褒めてくれるから。
それがうれしくて。
ただ、報告するとき、いつも不安になる。
こんなことでいちいちメッセージを送っていいのだろうか、って。
迷惑になるんじゃないか、って。
なぜそう強く感じるのか。
きっと「もしも自分だったらこんなにメッセージが来たら鬱陶しく思ってしまいそうだな…」って考えてるから。
つまり、「自分がされて嫌なことを、他の人にしている」ような気になってしまうんだ。
〈それが最初に言ってたことね〉
そうそう。
〈んー……「自分がされて嫌なこと」ってつまり、誰かからメッセージをもらうの、嫌なの?〉
そういうわけでもない。
ただ、僕の場合は、好きな人からのメッセージはうれしいけど、そうでもない人からのメッセージは、まさしく、そうでもない。
〈noteの読者さんは?〉
好きに決まってるでしょ。
でも、ただの知人みたいな、深い関わりがない人からメッセージを送られると、ちょっと困ったりする。
そして、もし、師匠が、僕のことをただの知人ぐらいに思っているならば。
僕の基準で、かなりの迷惑をかけてることになる。
それぐらいのメッセージを送ってる、と思ってる。
だから不安なんだ。
〈でも、いつも返信してくれるんだから、師匠も嫌ではないんじゃない?〉
そうかもしれない。
でも、そうじゃないかもしれない。
ただ義理で返事をしてるだけかもしれない。
そんな不安がなかなか払拭できなくて…。
でも、不安ばかりだと苦しいし、それが相手にも伝わって気を使わせてしまうかも。
それに、相手が本当に優しいだけの場合、失礼にすらなりかねない。
その優しさを信じていないってことになるから。
だから、この不安を和らげる、良い考え方はないかなって。
そう思って練り上げたお話がある。
「自分の基準が他人の基準とは限らない」
自分には無理でも、相手にとってはなんともない、むしろ喜んでしてくれたりすることが、たしかに存在する。
それがその人の優しさであれ、好みであれ、「自分の嫌なことが、相手の嫌なことじゃない」ということは、けっこうある。
だから、「自分だったらこんなにしてあげられないけど、してほしいと思う」というわがままに、無理なく応えてくれる人がいるかもしれない。
いま向き合っている相手が、まさにそうなのかもしれない。
だから、もっと堂々と甘えていいのかもしれない。
ただ、相手がそういう人なんだと信じるのは、ひどく難しい。
自分の基準の外側なんて、なかなか腑に落ちないものだから。
それでも信じられるようになるためには。
きっと、コミュニケーションを重ねて、経験値を積むしかないのだろう。
だから、会話をしようとするのは、大切なことのはず。
会話を試みるのは、間違っていないはず。
そして、その経験値の純度を高めるためには。
素直さが役に立つ気がする。
何ができるのか、何ができないのか。
何をして欲しいのか、何をして欲しくないのか。
素直になることで、それがわかりやすい人になれたなら。
そういう人が相手なら。
きっと、信じやすいと思うんだ。
ただ、相手に直接「素直になって」と言うのは難しい。
効果があるとも思えない。
だから、まずは自分から。
もっと素直になってみよう。
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