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名前屋(3) (3/4)

あらすじ
『名前屋』で名前を購入すれば、新しい名前での新しい人生を始めることができる。ずっと自分の名前にコンプレックスを持っていた「鬼山」は名前屋で名前を買うことで、新しい人生をスタートさせようと決意するのだが。
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世界は本当に切り替わったのか?『曙橋』の駅まで戻ってきたところで、私は恐る恐る自分の免許証を確認してみた。

「丸山 茂」

おお! 変わっている。

いつもの少し怒った感じの顔写真は変わらないが、確かに名前の部分は変わっているのだ。

ただ、それでも本当にそれが起こったのか、にわかに信じがたかった。
免許証などいくらだって偽造できるのではないか? あの男が隙を見てすり替えたかもしれない? いや、そんな隙はなかったはずだ。店にいる間、私はトイレなどで席を外した覚えはない。まて、マジシャンのように気をそらした隙にやってのけたのかもしれない。しかし、「丸山」と決まったのはあの時だ、あんな短時間で、偽造の免許証を作ることなど不可能ではないか? そんな思考をループさせながら私は自宅を目指した。

 それでも家の前に来た時、私は思わず歓喜の叫び声を上げた。なんと玄関の表札が「丸山」になっていたのだ。 

 家に入って、出迎えてくれた妻に「あのさ、つかぬ事を聞くけど、うちは丸山家だよな?」とニコニコしながら聞いてみると「何? 酔っ払ってるの?」とけげんな顔をされ、それでも「なあ、うちはずーと丸山だよな? お前は丸山茂と結婚したんだよな?」としつこく聞くと「そうでしょうよ、丸山よ! 中山でもなけりゃ、横山でもないでしょ!」とかなり本気で怒り出したので「そうだよな。ごめん。完全に酔っ払ってるな」と平謝りしつつも喜びでニヤケてしまい、最後は心底気持ち悪がられてしまった。 

 調子に乗った私は次に、高校二年の次男の部屋へ行き「なんでもいいから学校で使っているノートみせてくれ」と頼んだ。案の定息子も「なんで?」といぶかしがったが、適当にノートを拝借し確認すると、それは英語用のノートで、裏面には「Keita Maruyama」とローマ字で書かれていた。 

 私はあまりに嬉しくて、息子に向けてガッツポーズをした。すると当然息子もいよいよウザがりだし、「出てけ、出てけ」と私からノートをひったくって背中を押す。部屋を追い出される最中、私は「ありがとう丸山敬太君」とお礼を言った。 

 家族のつれない反応も、今や私の心を折ることはできなかった。やはり『名前屋』は本当だったのだ。世界は確かに変わったのだ。私は廊下を軽くスキップしながら自室に行き、自分の名前が確認できるありとあらゆるものに目を通しては、世界が変化した確信を深めていった。

 翌日の会社でも、みんなが私のことを「丸山さん」「丸山さん」と呼んでくれ、いよいよ私は自分が丸山になったことを実感した。丸山さんと呼ばれるのが嬉しくて、私は以前より周りに笑顔で接しているように思えた。 

 それでも一週間もすると、丸山にもすっかり慣れてしまい、名前は変われど私の内面はそう簡単には変わらず、当然若手たちも急に成長するわけでもなく、いかんいかんと思いつつも私は以前のように彼らを怒鳴りつけることが増えて行った。 


 ある日、「マルさん。ねぇマルさん! おいっマルさんって!」 
 肩を叩かれ、私はようやく自分が呼ばれていることに気がついた。私を呼んでいたのは新卒入社時より何十年も仲良くしている、私を「オニさん」と呼んでいた同期の吉田だった。 

「マルさんどうしたの? ぼーとして。疲れがたまってるんじゃないの?」 

「いや。大丈夫。本当、ただぼーとしていただけだよ」 

「そうかい。ところで今夜若手と飲みにいくんだけどマルさんもどうだい?」 

「せっかくだけど。今日は遠慮するよ」 

「今日もでしょ」 

「まあ、そうなんだけど」 

「若手をそんな敬遠しなくていいのに。ちゃんと話してみると案外愉快なやつらだよ」 

「ああ知ってるよ」

それからの吉田との会話はほとんど頭に入って来なかった。 その時私は深い喪失感に襲われていた。私は「オニさん」であって「マルさん」ではなかった。何十年もの間、吉田は私を「オニさん」と呼んでいたのだ。

最初は「入社式」の日に吉田がただ間違えただけだった。 

「オニヤマだからオニさんでいいかな?」 

 あっけらかんと吉田は言った。当然、私は拒んだ。そもそも読み方が間違ってるいると。けれど吉田はその響きが相当気に入ったらしく、その後もずっと私のことを「オニさん」と呼び続けた。

不思議なもので、吉田に「オニさん」と呼ばれても、そこまでイヤな感じはなかった。それは吉田の人柄か、ただの言い方のイントネーションか、少なくとも吉田が「オニ」さんというと呼び時には親しみだけで、全く悪意というものがなかった。私は最初こそ抵抗したものの、あだ名として繰り返し呼ばれるうちに、いつしか「オニさん」という響きが好きになっていった。それなのに……私は自らそれを捨ててしまったのだ。 
  
『名前屋』(4) に続く)

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