見出し画像

僕たちが人を愛することを取り戻すにはどうすればいいんだろうか?④「POPミュージックと愛」

J-POPを第一の補助線に


若者がどんな音楽を受け入れてきたか、ということは若者の恋愛形態の一側面を記述しうると思うので、2つを例にあげて対比で考えてみたい。

一つ目。荒井由実(=松任谷由実)の『ひこうき雲』には以下のような一節が出てくる。

白い坂道が空まで続いていた
ゆらゆらかげろうが あの子を包む
誰も気づかず ただひとり
あの子は昇っていく
何もおそれない、そして舞い上がる
荒井由実『ひこうき雲』より引用

二つ目。最新(?)のヒット曲から。

グッバイ
君の運命のヒトは僕じゃない
辛いけど否めない でも離れ難いのさ
その髪に触れただけで 痛いや
いやでも 甘いな いやいや
Official髭男dism『pretender』から引用

さて、この2曲から何を導こうというのかということなのだが、それを具体的に指し示す前に、以下の概念を提供したい。

<客観的表現>とは何か

<客観的表現>とは、想像の対象を自分以外の何かに向かわせる表現のことをさして僕がそう読んでいる。

<客観的表現>の優れている点は、表現を見る / 聴く側の解釈によって表現者の主観的情動 / 思考を浮かび上がらせることができるということだ。
『ひこうき雲』の中で出てくる「空」は一点の曇りのない、純粋な少年の想いの象徴としても受け取ることができるし、「かげろう」は希死念慮のメタファーとも受け取れる。
むやみやたらと感情を吐露しなくても、登場人物の感情をこちら(見る / 聴く側)が解釈し、理解できるのだ。

しかし、その作業(解釈)には、カロリー(熱量)を要求される。
だから、情報が溢れれば、たとえば、サブスクリプションによって様々な曲を0.8秒で鑑賞できるようになれば、1曲1曲にかけられるカロリーも減少していくだろう。(これが解釈の質に影響を与えているという論を目にすることもあるが、本質的にはそうではない。僕が思うに愛着 / 執着などを左右する原体験の不足によって、他者の他者性(つまり、完全な外部存在としての他者)に対しての興味関心の低下が根本にあると思う)

これは紛れもなく、<客観的表現>だ。このように『ひこうき雲』では<客観的表現>が連発されているが、他人には理解できない動機を持って、この場合、天に憧れていたというそれによって、自死を選んだとユーミンが考えていること、つまり、ユーミンの主観を解釈することができる。

70年代後半から、見事に<自分語り的表現>が溢れ出す。
<客観的表現>が消失し、<自分語り的表現>が増えているのが、70年代後半であると覚えておいてほしい。
Apple music 等で各年代ごとにベストがまとめられていたりするので、80年代以降の曲も聞いてみると面白い。

社会指標を第二の補助線に

さて、この70年代後半のjーpopの変化とほぼ同時に巻き起こる現象がある。(実際は音楽シーンが先行している)
それが若者の「性体験率」の増加だ。
1974年は23.1%だった男子大学生の性体験率は、81年には32.6%、87年には46.5%にまで上昇する。その後、05年にピーク(63.0%)に達し、減少に転じる。
女子大生の性体験率は74年は11.0%、81年には18.5%、87年には26.1%、93年に43.4%まで上昇する。

これらの現象を元に僕が考えた仮説。
その仮説とは、

popから<客観的表現>が消失し、若者たちが恋愛に開かれ、徐々に一人称的「性」に目覚めた結果、そこに残されたのは自分勝手な「愛」だけなのかもしれない

という仮説だ。これ以降、もう少し詳しくこの仮説について書いていこうと思う。

一人称的「性」=自慰行為

若者の性体験率が増加するにつれて、多くの雑誌やアダルトビデオで「フェチ」的な何かが見られるだした。
例えば、『SMっぽいのが好き』は1986年だし、AV業界で初めて「素人もの」が登場したのは1989年だ。そのころは男子の性体験率が約半数に到達しようとしていた頃。
もちろん、AVを見るのは男子が多いだろうし、その男子どもがこぞってフェチ系に流れ始めたのだ。

ここで「フェチ」の語源を辿ってみたい。
15世紀後半にアフリカを訪れたヨーロッパ人が、現地の独自の崇拝の対象を指して、「フェイティソ(ポルトガル語で“魔術“)」と読んだことから来ている。
ちなみに、1970年代後半には谷崎潤一郎が足フェチを思わせる詩を読んでいたりする。

「性」はこのようにして、魔術化していく。
つまり、個人の内面で独自の進化を遂げ、同じ空間を共有しているはずの相手でさえ共感不可能なものにまで尖っていくのだ。
性体験率が上昇していくに従って、「性体験」には開かれていく若者が、「フェチ」の世界に閉ざされていくというのはなんとも皮肉なことだと思わないだろうか。
それはまた、「性」というものが一人称のものとなっていくことを表している。
「私たち2人の「性」」など本質的にはありえない。
そもそも男性と女性は別の仕組みで動いているし、持っている器官だって異なる。
相手の感覚は永遠にわからないかもしれないが、それでも相手に快感を感じてもらうことを前提とした体験質的空間構築が「性」なはずである。つまり、どこまでいっても「性」とは二人称のものなのだ。
誰かがいないと成立しない、その誰かは自分とは異なる感覚を持っている他者であるが、最後には“一つになる“という矛盾。
苦しみながら感じている風の演技をしている女性にしか興味を持たなくなった男性のそれは下手なはずだ。

<自分語り的表現>しか受け入れられなくなった

僕たちの恋愛にはもう自分語りしか存在しない。
友達との恋バナに、自分自身の恋愛観に、恋愛を語る音楽にはもう<自分語り的表現>しか残されていないだろう。
「先週、やった女は地雷系で萎えた。まじメンヘラでさ」「やっぱり顔とかスタイルとかより、フィーリングだよね」「でも結局、イケメンしか勝たん」
全てがくだらなく、全てがどうでも良くなっていく…。そんな恋愛シーンを彩るpopシーンもまた「で、どうした?」感が滲み出てくる。
ドルチェアンドガッパーナの彼女は、お前のそういうウジウジしたところが嫌いだったんだよ!!!って一蹴したくなる。

ただ、そんな自分しか語らない、いや、<自分語り的表現>から表面的な「愛」を語っていると思わせてくれる表現しか僕たちはもう受け入れられないのだ。
なぜなら、「愛」のベクトルは自分に向いてるからだ。

恋愛のモチベーションは、世界に開かれるため / 不確実性を実感するため(完全な他者であるが故に愛したい)であったのが、世界を閉じるため / 不安を埋め合わせるため(話が合い、安心できるから愛せる)になった。

世界とは、自分が思っている以上に複雑で、自分如きには到底理解不可能だ。だが、僕が彼女を想うと自分が世界だと思っていた世界は広がる。同じものの美醜でさえ異なる感受性があり得るのだと。そういうものを知らせてくれる彼女だからこそ愛したいとおもう。

それに対して。

世界の複雑性になど目を瞑って。他の人など見ないで、私だけで満足して / 満足させないといけないんだ。私と同じものを見たら私と反対の感想なんて聞きたくない。好きなものは一緒じゃないと、話が合わないのなんて耐えられない。だって、あなたは私と愛し合ってるのだから。

ん?「愛」ってそんなに自分1人の世界で完結するものかい?
フィーリングが合うから、イケメンだから、背が高いから、年収が一定以上だから、優しいから、プレゼントをくれるから、、、
そういう自分の評価基準に合致するかどうかが愛する条件なのかい?
それは、自分の評価基準をクリアした男 / 女に愛されている自分を愛したいという自慰的自己承認の道具としてしか「愛」を認識できていないだけなのではないか?

結局、「愛」している / してもらっている、僕 / 私を「愛」せるかどうかのみが、恋愛をするモチベーションとなっている。つまり、自己愛の拡大解釈としての「愛」でしかない。
結局、昨今の「愛」など自分を愛したいだけなんだろうが、このオナニー野郎 / 雌豚どもが、でいい。

「性」か「愛」かどちらから先に他者が消失したのかの答えを僕は持たない。
まあ、どちらが先なのかは問題ではないのかもしれない。
でも、僕は誰かを「愛」したい。
その相手が僕の計算をゆうに超えてくれることで、僕は世界を知ることができるなら。
また、その相手に不服だが愛したい、とか言われたい。
そんな偏愛を「愛」に。

最後に、それでもj-popは無目的な本質的な「愛」を歌ってると思う。
そういう曲に出会うと、リピートでずっと聴いてしまうね。
一例を挙げて締めたい。

「あなたのいない世界じゃ
どんな願いも叶わないから
燃え盛る業火の谷間が待ってようと
守りたいのはあなた」
宇多田ヒカル『あなた』より引用


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?