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しなやかな強さを求めて生きたひと。須賀敦子の面影を探して

イタリアのミラノにあるサン・カルロ書店(旧・コルシア・ディ・セルヴィ書店)に訪れたときのことはいまでもはっきりと、覚えている。

作家・エッセイスト須賀敦子の著書に登場するコルシア・ディ・セルヴィ書店。『ミラノ 霧の風景』『コルシア書店の仲間たち』など作品のなかで何度も舞台となったこの場所は、イタリアのミラノの中心部、ドゥオーモから歩いて10分程度のサン・カルロ教会の建物の右隣にひっそりとたたずんでいる。書店なので当然ながら本が置いてあるのだが、宗教関連の書籍が主に取り扱われていて、なかには神父の詩集もある。

須賀敦子作品の愛読者からするとその名を知らないひとはいないだろう。あこがれた書店は想像どおりの重たい扉と、想像以上の奥行きと広さで堂々と来訪者を待ち構えていた。いまでも誰ひとり拒まずに開かれている。

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1950年代。須賀敦子は戦争がまだ生々しい記憶とともにあった時代に、ひとりの日本人として、ひとりの女性として、生きるすべを求めてヨーロッパを訪れた。偶然の出会いを繰り返し、ミラノのちいさなこの書店でじぶんの居場所を見つけ、書店運営の中心人物のひとりであるイタリア人・ペッピーノと結婚。幸せな日々は長く続かず、彼は数年後に病気で夭折する。しかしながらイタリアに住む人々や個性的な仲間たちに深く愛され、この小さな書店で翻訳や文学研究に勤しんだ。日本に帰国後には慈善活動であるエマウス運動に没頭し、大学の非常勤講師の職を見つけて60歳を越えてようやく、みずからの言葉で過去を語り始める。それが女流文学賞・講談社エッセイ賞を受賞した『ミラノ 霧の風景』である。

須賀敦子とは、みずからのなすべきことを試行錯誤し、ゆらぎながらも、ひたすらに信じる道を生きた女性。没後20年が経過しても、色褪せることのない彼女の生き様は現代をいきるわたしたちに、どんな人生でもゆるぎない芯のつよさがあれば、どこでも生きていけると教えてくれる。

店内に足を踏み入れたわたしは、イタリア語で書かれた背表紙でいっぱいの本棚に視線をうつした。木目調のあたたかなテーブルに触ると浮かぶ、店内で過ごした彼女の日常。

いいことばかりではなかっただろう、当時のヨーロッパにはめずらしいアジア人だったはずだ。辛辣な言葉だったり不愉快な言葉を浴びることもあったと思う。その度に彼女はつよく、やさしくなったにちがいない。

シモーヌは平然と私を批判することがあった。あなたには方法論がなさすぎる。あるとき、どういう話のなりゆきだったのか、いきなり彼女がいったことがある。存在論だけじゃあ生きていけないのよ。私はかっとなって声を荒らげた。ありがとう、シモーヌ。具体的にどう生きればいいのかわからないで、ばたばたしてる私にむかって、よくそんなことがいえるわよ。すると彼女はちょっと笑って、私の目をのぞきこむようにすると、いった。おこらないでよ、おこると目がますますシナ人の目になる。また彼女はこういって私を叱ったこともあった。もうパリまで来てしまったのだから、勇気をだして、ふつうの女になるのをあきらめなさい。...(中略)...なんのために勉強しているのか、あるいは、将来、どんな職業をえらぼうとしているのか、扉を閉めたままで回答をおくらせて、ぐずぐずしているじぶんが、もどかしかった。その扉を開けると、たとえば、じぶんの価値を厳しく決めてしまう<他人の目>のようなものにわらわらと取り囲まれるのではないかと、そのことが怖かった。」(「ユルスナールの靴」)

わたしも将来の道を決めかね、全ての仕事を辞めて、20代後半にフランスへ訪れた。語学習得という大義名分をもって。それまで抱えていた仕事や積み上げた経験を断ち切り、まるで退路をたったほうが自由になれると思い込んで、じぶんらしく生きられる場所がそこにあると信じていた。全てを一から始められることの喜びが不安をかき消していた。

だからこそ、このシモーヌと須賀敦子のやりとりは見ないようにしていたじぶんの甘さに釘をさすかのような、どきりとする文章でもあった。

須賀敦子が過ごした日常が、壁や天井のいたるところに染み込んでいる。手すりを撫でるとその記憶が蘇るかのように、胸が熱くなり感極まる。これまで抱いていた彼女への尊敬や思いが溢れて、一歩前に進むだけでも涙がこぼれてとまらない。

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入り口右手にある小さな階段から2階に上がると、正面先には須賀敦子とペッピーノ、同僚のルチア、ガッティ、ダヴィデ神父の写真が飾ってある。それは彼らは今もここにいて書店を守り続けていることを意味している。2階は吹き抜けになっていて、1階の様子が見下ろせる。奥には小さな会議室があり、その先に仕事机のようなこじんまりとした角部屋。いまはだれにも使われていないような薄暗い自習室のよう。

わたしは須賀敦子の何が好きなのだろう。圧倒的な知性と読書量のある彼女に対して単にヨーロッパに魅了されたとか文学が好きだとか関西出身だとか、共通項をならべて彼女の気持ちがわかった気になるなんて実におこがましい。でも、きっと呼応する部分があるからこそ彼女の文章に心は動かされるし、知らない世界に飛び込んだ孤独も分かち合えるし、彼女の書くものを読めばその物語の舞台に一緒に立っているかのような、同じものを見ているかのような感覚を得る。

「お店の写真を撮っても良いですか?」

受付で店番をしているおじさんに声をかける。「もちろん、いいよ」と言ってもらい入り口や内観の写真を撮影する。途中でおじさんから「君も撮ってあげようか?」といわれ、お願いすることにした。完全に泣き顔のわたしに「泣いてるの?」と驚いた表情で顔を覗き込む。当然びっくりするだろう、観光客が本屋で、何を読むわけでもないのに泣きはらした顔をしているのだから。この書店で働いていた女性が大好きであることを同行していた友人に解説してもらうと、彼は優しく微笑んだ。そして帰り際にやさしく告げた。

「いつでも来たいときに来ていいよ。」

今もし須賀敦子とペッピーノがこの場にいたとしても、彼と同じことを言ってくれたにちがいない。

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書店を出て隣にあるサン・カルロ教会に訪れた。奥行きのある広い教会で、扉を開けた瞬間にふんわりとじぶんが包まれるような、無重力の心地を得たかのようだった。奥のキリストが掲げられた台に小さなドーム型の天井。

着席して正面をぼんやりと見渡していたら、しばらくして、ミサが始まった。シスターがイタリア語で語りはじめ神父がゆっくりと歩いてくる。

語られる言葉に耳を傾け、じぶんがじぶんでないような感覚に陥ってぽろぽろとただ涙だけが流れた。熱いしずくが服にこぼれ、濡れてシミになるのも気にならないほどひたすらに泣いた。泣きたいと思っているのではなく、涙を流す回路が誰かにそのまま持っていかれたような、ヒューズが飛んでしまったような、腑抜けになってただただそこに魂だけが存在しているようだった。じぶんが何者なのかとか、どういう過去があるのかとか、世俗的なことを考える隙間がなくなった瞬間だった。

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人は、生きているだけで尊い。死んでしまえばその人が知り得た事実はそのままどこかに持ち去され、生きている我々の手の届かない場所に置かれてしまう。いまわたしがこの世界で、彼女の作品に出会い、感銘を受け、旧コルシア・ディ・セルヴィ書店とサン・カルロ教会に訪れることができたのは生きているからこそ。彼らからどれだけの贈り物を頂いているかわからない。彼らに対して何ができるのか、わたしは須賀敦子との出会いから何を紡ぎだしていくことができるのか、本当にわからない。どうすれば恩返しができるのだろう。彼女のいない時代を生きてなにを果たし、なにを為せるのだろう。

じぶんなりの答えを探さなければならない。彼女に追随するわけでもなく、真似をするわけでもない。じぶんが向き合うべき問題を見つけ、出会うべき場所に赴き、たっぷりと考えて生きていく。あこがれた書店という目的地についたと思えば、そこに達成なんてものはなくて、また新たな課題を受け取っただけだった。そして生涯をかけて解答に向き合わなければならないという難題に圧倒されてわたしはどうしようもなく途方にくれた。

ただ神父の声だけが、静かに教会のなかで響きわたっていた。


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