たいしたことある日々のこと230428
「じぶんの目の前に見えている世界だけが、すべてではない」。
よく聞くありきたりな文言ではある。だがしかし、それを実際に腑に落ちる感覚として理解できるひとはどれだけいるのだろう。
そうだね、と納得をしながらも、本当に知らない世界に対しては「へえ」といった驚きや衝撃だけでなく、または憎しみや怒り・悲しみなどの得体の知れない感情が生まれることも同様にあるはずだ。そうすんなりと、知らない世界があるんだなどとぼんやり受け入れていられるよりも、目に見えていない世界を眼前に置かれたときには頭をがつんと殴られるような気持ちになることもあるかもしれない。
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ふと最近、運用するアカウントで急にバズることがあった。大したタグもつけていない、一言二言書いた文章に一枚の写真だけ。言葉はなにもとんちがきいているわけでもなく、感動的なエピソードもない。
たったひとつの投稿に6万を超える閲覧数があり、海外からのユーザーのコメントがつき、いいねの数は1000を超えている。
実際、その投稿のなにが際立っていいのかいまいちよくわからない。ただアカウントについてはオリジナリティはあるし魅力的な部分がもともとあったのかもしれない。ツイッターの気まぐれなアルゴリズムのおかげかもしれない。理由はともかく、ひとつのツイートは世界中に広がった。
それはまさに「わたしの価値観と他人の価値観はおなじではない」ということを確認するきっかけになった。じぶんの見えているように他人は物事を見ていないのだ。いいと思わないものがいいと評価されたり、いいと熱意を込めて訴えたところで理解されなかったり。
そもそも評価とは、己自身だけで決めるものではないのだ。
外に晒されて見てもらって、そこに心をぐっと掴むものがあれば、人はそれを「いいな」「好きだな」と感じるのだからわざわざ、自らを規定しなくていい。
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だがしかし、自らを規定しカテゴリーに当てはめて「わたしのこと、見て見て!」という承認欲求を満たしてもらいたい子がとても多いんだなという印象を特に昨今のSNSで感じる。同様にそこに群がる、優しい言葉をかける大人をも同時に見かける。限りなく続く欲求の連鎖。すごいね、さすがだね、素敵だね、綺麗だね、かわいいね・・・。
搾取される立場もあれば、逆に搾取してほしいと願う人。ここに対してどのようなアプローチができるのだろう、というのが最近の悩み事。考えただけでは解決しないので、どうにか行動はしないといけないのだが。
そもそも、周りのことを考える前にじぶんの問題をどうにか解決すべきだな。まずはそこから。つべこべいわず、やるべきことをやるのが大事。