電灯

マテウス・ロゼ~BY THE GLASS

 最後の一滴をあけたところで、その幽霊は現れた。

 前から何か出そうだから家賃がべらぼうに安いんだ、と噂されていた我がマンションだったがついにこの時が来たかと思った。
 だが、幽霊の風貌はちいとも恐くなかった。三十がらみの痩せた小柄な男で、白いシャツにソムリエの着けるような黒くて長いエプロンをしていた。


「何しに出たのよ、あんた誰よ」
 と、私がグラスを傾けつつ尋ねると、男は青白い顔を上げてこう言った。
「…あなたはこの部屋でめでたく千本目のワインを開けました。マテウス・ロゼか…いやに安っぽいけどまぁ記念は記念なのでお祝いしましょう」
 何なんだ。お祝いって。放っといてくれ、安酒だろうが何だろうが。フリーターの身分じゃ千円以下のワインでも充分贅沢だっつの。
「いえ。これから毎日私があなたにワインのことを教えて差し上げます。いいですか?毎晩二時きっかりに待ってますよ」
 男はそう言って薄ら笑いを浮かべつつ、壁際に消え去った。


 翌日起きて、大家さんを尋ねてみた。だが、生憎海外旅行中で留守にしているとの事だった。気味が悪いので仲介の不動産屋に電話してみたものの、担当者は変わったばかりでまったく以前の入居者のことを知らない。そうこうしているうちにバイトの時間になって、疲労困憊して戻ってくると、暗い部屋の片隅に男の幽霊は待っていた。
 電気を点けたにもかかわらず、男はややその影を薄くしたくらいそこに正座している。
「遅かったですね。十分の遅刻ですよ」
「バイトなんだから仕方ないでしょう?あんた図々しいわね。で?何の用?」
 私は恐いというよりは疲れていて鬱陶しかったので、つっけんどんに言った。男は昨日と同じく青白い顔で頷いた。
「第一問です。ワインには四種類ありますが、さてそれぞれ何と言うでしょう?」
「はぁ?何言ってんだか。赤白ロゼと…発泡酒じゃないのぉ?」
「ブッブー。不正解です。一つしか合ってませんね」
 陰気臭い顔に似合わずブッブーという声のおかしさに、思わず私は口元を緩めてしまった。
「ワインはですね。一般的に我々がワインと呼んでいるものは『スティルワイン』というものなんです。EUのワイン法で気温が平常二十度ほどで、ガスが一気圧以下のものをそう呼びます。赤・白・ロゼというのはこのカテゴリーに含まれます。第二に『スパークリングワイン』これが発泡酒ですが、こちらは同じくEUの法律で一気圧以上のものですが、実際には三気圧以上がスパークリングワインとして通用しています。それ以下はそれぞれフランスではぺティヤン、イタリアではフリツァンテなどと呼ばれる微発泡なのです。第三に『フォーティファイドワイン』、これは酒精強化したスティルワインのことですが、スペインのシェリーのようにブランデーテンかしたものやポルトガルのマディラのようなもの、ヴァン・ド・リケールなどもこれに入ります。第四に『フレーヴァードワイン』。これはワインに薬草や果実などを添加したチンザノやサングリアのようなものですね」
 立て板に水のごとく流れる弁舌に、私は呆れた。血の気のない頬に薄っすら赤味さえ差しているように見えた。何なんだ、この『ワインおたく幽霊』は。
 しかし、不正解だと何か恐ろしいことでもあるのかと思いきや、幽霊は語るだけ語ってあっさりとその晩は消えてしまったのだった。
 
 開口一番、眞由美は「すんごい。その幽霊うちに出てくれないかなぁ」と抜かした。
「冗談じゃないよぉ。毎晩辟易してんの、昨日はさぁメドックの格付けがどうのって。知るわけないっしょ、天候不良の年が何年だとかさぁ。もう頭痛いよ」
「へぇ。でも面白いなぁ、今晩泊まらせてよ。あたしも勉強になりそう。どんな感じなの?」
「ベンキョーねぇ。何かやつれたユースケ・サンタマリアみたいなんだよ、それが」
 眞由美はリカーショップでアルバイトしていて、ワインアドバイザーだか何だか資格を取ろうと勉強中だ。確かにそういう人にとっては、幽霊の迷惑なまでのウンチクも有り難いのかも知れないけども。
 というわけで、行き掛かり上今晩は眞由美がうちに泊まりに来る事になった。
 だが、その晩に限って幽霊は姿を現さなかった。
「どうしたんだろ?人見知りしてんのかなぁ」
「図々しいヤツなんだから。幽霊のくせに人見知りするわきゃないっしょ」
 やはり朝まで粘ってみたがダメだった。眞由美は仕方なく眠い目を擦りつつ、出勤して行った。私も一眠りしてバイトに行き、そして戻って来ると、男の幽霊は果たしていた。
「…何でお友達を呼ぶんですか。恥ずかしくて出て来られないじゃないですか」
 じゃあ、私に顔を見せるのは恥ずかしくないのか?と言いたかったが、私は何だかすっかりしょげかえった幽霊が可哀想になってキツイ事も言えなかった。
 翌朝私は本屋に行き、ワインに関する教本だの参考書を買って勉強する事にした。勿論、幽霊にはナイショでだ。

 バイトから戻っては幽霊とワイン問答をし、ウンチクを聞いているうちに私はだんだんワインの世界に興味を持つようになった。アルバイト先が小さなビストロだという事もあって、本当はもっと興味を持っているほうが仕事に役立ったのだが、なんとなくフリーターなので所詮一生の仕事でもないしと思っていた。第一、ソムリエを置くようなレストランではないし。
 だが、漠然としていた方向性が幽霊との毎日の問答で開けてきた感じだ。
「前菜にフォアグラ、シャトー・ブリアン・ソース・ショロン、デザートに栗のタルトを使った場合、一本のワインで通すには次のどれがいいでしょう?店のストックにはエルミタージュ・ルージュ98年、シャトー・フィジャック01年、クロ・ブラン・ド・ヴージョ05年、シャトー・クーテ88年のみとします」
「うーん。フォアグラにはクーテでいいんだけど、シャトー・ブリアンに相応しい上級の赤だとヴージョ。でもブラン(白)だから。本当はラ・ロマネくらいが欲しいけど、最終的にバランスがいいのはフィジャック」
「正解です。補足する必要もありません」
 そういうと、幽霊は長い溜息を吐き、相変わらず青白い顔に笑みを浮かべた。
「もう多分此処にお邪魔することは今後一切ないと思います。…では、あなたの人生にとってワインが素晴らしいものでありますように」
 幽霊は力なく言って掻き消えるようにいなくなった。
 そうして、その後二度と現れることはなかった。
 でも、こんな話信じて貰える訳がない。幽霊と毎晩ワインの勉強してただなんて。だからこの顛末を眞由美に話すのも、少し先の話だろう。

 私は翌年のソムリエ認定試験に合格した。バイトも辞めて今日が新しい職場での第一日目だ。見習いソムリエールとしての第一日目でもある。
 エプロンを着け、トーション(白布)を右手にホールに立つ。
 チーフソムリエが、緊張気味の私の顔を見て微笑を浮かべた。
「君緊張しすぎ。もぉっとリラックスリラックス。あ、そういえば君、履歴書見たけど勝沼が住んでたマンションと同じだね」
「勝沼さん?」
「うん。うちで働いてたソムリエ。…実は一昨年、交通事故で亡くなったんだ。毎年コンクールで入賞するほど優秀なヤツだったんだけどな」
 チーフが、手に取ったバックナンバーの雑誌を開いた。そこに勝沼の笑顔の写真があった。部屋の片隅で見たあの青白い顔ではない。血色の良い生き生きとした若手ソムリエの顔が。記事の最後に勝沼の一言が書かれていた。
「あなたの人生にとってワインが素晴らしいものでありますように」
 その晩、私は一人マンションの部屋でマテウス・ロゼを開けた。グラスは二つ用意した。
「ありがとう。勝沼さんの幽霊」
 ずっとずっと遠くの方で、乾杯の音が聞こえたような気がした。


〔Fin〕

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