東京医大の問題って、なんだか出生前診断の問題と似てる
一昨日のnote「東京医大の女子への一律減点の件の根っこにある問題」にも書いた東京医科大のニュース。
このニュースに関するツイートやコメントを見ていて感じるのは、出生前診断の問題とその根っこにあるロジックがそっくりだなぁ~と。
「世に送り出しても迷惑をかけるだけだから、世に送りだす前の時点で調整しよう」
乱暴な言いかただけど、女子一律減点も出生前診断もこの根っこは一緒なんだと私は思うのね。
そしてそんな風潮を生み出す背景にあるものが、
ー女性や障害のある人が「一人の人」として尊重されていないこと(=差別されても仕方のない人だと思われている事)と
ー社会環境側の不備によって生き方の選択肢を奪われていること
だと私は思うんだよね。
今日のnoteは、「出生前診断」の問題と「女子一律減点」の問題を同じ構造の文章で比べて見ようと思います。まずは出生前診断についての考察です。
<出生前診断の問題>
出生前診断をしようと決断する理由は一言では語れないとは思うんだけど、命の選別っていうのは紛れもない事実だよね。
でもね、「産む・産まない」の決断を、「障害のある子がどれだけ家族を苦しめるか」という点で決めるってどうなの?って私は思うんだよね。出生前診断の話題では「障害のある子は社会のお荷物」とか「障害のある子だってわかってて産むのなら自己責任でどうぞ」って意見が出るけど、「その子がどんな風に生きるか」が本来なら一番大切なはずだよね。
確かにね、障害のある子供を授かると家族の生活は一変する事の方が多い。でもね、家族やその周りが大変な思いをするその同じだけかそれ以上に、その子が自分ではどうする事もできない大変な思いをしてるって事を忘れちゃいけないって思うのね。周りが振り回されるんじゃない。その子が周囲の無理解に振り回されてるんだよ。
障害を持って生まれる。それはね、その子が「いまの社会」では特別な工夫がないと生きられないから「障害」なんだよね。障害を生み出してるのは、その子に適応できてない社会側の方にあるんだよ。その責任を今から生まれようとする子供に押し付けるのや障害を持って生まれてきた子たちに押し付けるのはおかしいよね。
例えばアスペルガーの人にはアメリカは生きやすいって言われる。それはね、アスペルガーの人が持つ特徴にアメリカの社会が日本よりより近いからなんだよね。だから日本ではアスペルガーの特徴は生きる上で障害になるんだけど、アメリカではそれが少なくなる。原因は個人じゃなく社会側にあるんだよね。
だからね、きっと私達がすべき事は障害があるから産むべきかどうかの論争じゃなく、多様性を受け入れる準備、多様性に対応できる社会を築く事なんじゃないかな。障害のある人を「かわいそうね」って見る前に「かわいそうにしてるのは自分達かもしれない」「じゃ、何が出来るかな」って思える人が増えてほしい。
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では今からは、上に書いた出生前診断への考察の文章の一部を書き換えて、東京医大の問題を語ってみたいと思います。※書き換え部分は太文字で示してます。それ以外の部分は編集していません。
<東京医大の女子一律減点の問題>
女子一律減点をしようと決断する理由は一言では語れないとは思うんだけど、性差別っていうのは紛れもない事実だよね。
でもね、「女子受験生を合格させるかどうか」の決断を、「女医さんの働き方がどれだけ医療現場を苦しめるか」という点で決めるってどうなの?って私は思うんだよね。東京医大の話題では「結婚・出産で職場を去る女医は社会のお荷物」とか「育児出産は自己責任でどうぞ」って意見が出るけど、「その女性がどんな風に生きるか」が本来なら一番大切なはずだよね。
確かにね、出産・子育てと仕事を両立しようとしてる女医さんが職場にいるとその人が所属する組織は一変する事の方が多い。でもね、その同じ環境で働いている人が大変な思いをするその同じだけかそれ以上に、その女医さんが自分ではどうする事もできない大変な思いをしてるって事を忘れちゃいけないって思うのね。周りが振り回されるんじゃない。その女医さんが周囲の無理解に振り回されてるんだよ。
女性として生まれる。それはね、その女性が「いまの社会」では特別な工夫がないと自分らしく生きられないから女性であることが生きて行く上で「障害」になるんだよね。障害を生み出してるのは、女性の生き方に適応できてない社会側の方にあるんだよ。その責任を今から受験をして大学で医学を学んで社会に出て活躍しようとする女子受験生に押し付けるのはおかしいよね。
例えば女医さんにはアメリカは働きやすいって言われる。それはね、女医さんが求める生き方にアメリカの社会が日本よりより近いからなんだよね。だから日本では女医さんの求める生き方は日本の医療組織で生きる上で障害になるんだけど、アメリカではそれが少なくなる。原因は個人じゃなく社会側にあるんだよね。
だからね、きっと私達がすべき事は女性は出産・育児で職場を去るから入学者数を減らすべきかどうかの論争じゃなく、多様性を受け入れる準備、多様性に対応できる社会を築く事なんじゃないかな。出産・育児で職場を追われる女医さんや一律減点でチャンスさえ奪われる女学生を「かわいそうね」って見る前に「かわいそうにしてるのは自分達かもしれない」「じゃ、何が出来るかな」って思える人が増えてほしい。
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言葉を入れ替えただけの二つの文章、読んでみてどう思いましたか?
もちろん、多少強引な書き換えの部分があるのはあるんだけど、やっぱり私にはこの二つの問題の根っこは一緒だと思うんだよね。
だからこそ、解決策も同じはず。
最初に書いた
「世に送り出しても迷惑をかけるだけだから、世に送りだす前の時点で調整しよう」
これは本来は、
「今の社会環境のままでは世に送り出しても周囲から無理解の迷惑をかけられるだけだから、社会のシステムを調整しよう」
だとおもうんだよね。
だからね、こういうムーヴメントが起きるきっかけに、今回のニュースがなってくれたらな、と思い今日のnoteを書きました。
人は誰もが「一人の人」として尊重されること。そして、社会環境側の不備によって生き方の選択肢を奪われている人がいなくなるようにすることが、今日書いた女性や障害のある人だけでなく、あらゆる社会的弱者と言われる人にとっても、もちろんそうじゃない人たちにとっても優しい社会になるんじゃないかな。