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『古事記』を神学的に読むと見えてくる次元(現代語訳『古事記』では分からないこと 3)

(一部加筆修正しました。2024/3/1)

■神学の力

神道には、教義も経典もない。あるのは儀礼くらいなので、教義を巡る争いなどはほぼ無い。ただ、神学がないのは神道にとって損失なのではないかと思っている。

神学とは、思考の力で神に近づこうとする運動のことである。本来、神を感じることは、感覚と知力の双方の力が必要なのだ。

『古事記』の冒頭は、感覚だけでは読めない。きちんと読むには、神学的思考が必要となる。

クリスチャンでもユダヤ教徒でもムスリムでもない普通の日本人にとって、神学は遠すぎる存在だが、欧米人にとっては神学ないし神学的思考は知的活動のベースであり近すぎて意識できないくらい身近な存在だ。

神学的思考は、現代の世界を駆動する原動力となっている。

例えば、インターネットは、1970年代のアメリカのハッカーコミュニティの有力者たちが、南米の神父だったイヴァン・イリイチの思想に影響を受けて生みだしたものであるし(*1)、そのインターネットを爆発的に普及させる原動力となったWWWの発明者であるティム・バーナーズ・リーは、プロテスタントから派生したユニテリアン・ユニバーサリズムの信奉者であり、WWWはユニテリアン・ユニバーサリズムの哲学と多くの共通点があることを書き記している(*2)。

発明家で未来学者のレイ・カーツワイル(現Google AIビジョナリー)は、シンギュラリティという言葉を一躍有名にした『シンギュラリティー・イズ・ニア(シンギュラリティーは近い)』(*3)の前書きを、ユニテリアン(*4)の、まさに神学的思考の教育体験から書き記している。

世界を加速度的に変化させているITは、神学的思考なくしてはあり得なかったと言っても過言では無い。

我々、日本人が、GAFAなどのビッグテックの手のひらの上の消費者の位置に囲い込まれて抜け出せないのは、手のひらの動きのメカニズム(神学的思考)を理解できていないせいも少なからずある。そんなことを、『古事記』冒頭を読むと考えてしまう。


■『古事記』と神学

神学的思考は、矛盾に満ちた(ように見える)経典を矛盾無く解釈する訓練を含むため、一見解の無い難問を解く訓練になる。または、解の無いように見える難問が解けるほどまでの知的能力がなくても、神学的思考は体系化されているため、それを身に付けていれば、難問を解いた人の思考の道筋をたどることが、身に付けていない場合より格段に楽にできる。

このカラクリが、日本では一般には知られていないため、神学的思考の力とキリスト教の強さが取り違えられたり(*5)、神学を学んだ人の知力を過大評価してしまうようなことが起きている(*6)。

日本でも、戦前は、神学的思考を社会科学に展開したようなマックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(*7)が、デカンショ(デカルト・カント・ショーペンハウエルをまとめた呼び方)と共に旧制高校生の必携書だったと聞いたことがあるので、我々が神学的思考をほぼ完璧に失ったのは戦後のことなのかもしれないが、日ユ同祖論(日本人と古代ユダヤ人は同じ民族だったというDNA分析が発達する前の俗説)のような明治からあるユダヤ人コンプレックスの根強さを見ると、その源泉は明治維新にあるようだ。

明治時代以前の日本では、神道と仏教が別ちがたく結びついていて、仏教が神道神学の代替となっていた。感覚の神道と思考の仏教が、体験という行為で相互浸透する非常に完成された宗教体系を持っていた。

それを無理やり分離したため、仏教は体験から離れ葬式仏教化し、神道は思考から遠ざかり国家神道にすげ替えられた。

戦後となり国家神道は解体されたが、仏教と神道は離別したまま。神道は、思考から離れたままである。

今の神道は、敢えて誤解を恐れずに言えば、宗教というより能や日本舞踏、茶道などの伝統芸能のようになっているように見えなくもない。それが良い面ももちろんある。日本の伝統芸能が作る空間は聖なるものであり、それと神道を区別するのはナンセンスであると私も思う。

だが、『古事記』はどうか。『古事記』は、神学として読まれたがっているのではないか。神学的思考から離れた『古事記』は、ただのお伽噺おとぎばなしである。

聖なる空間と聖なる所作が創り出す現世の異世界が素晴らしいことは言うまでもないが、それと『古事記』を読むことには断絶ミッシングリンクがあるのだ。

『古事記』には、独自の神学を生む可能性を秘めている。『古事記』の冒頭は、ほぼ神々の名前の列挙であり、神学的思考がなければ意味を取ることが難しいからだ。

ただし、誤解を避けるために言うが、私は『古事記』に宗教的権威を復活させたいと思っている訳ではない。それに、今の時代に神学が生まれようもないし(アナクロだ)、神学が一朝一夕に生まれるはずもない。

ただ、聖なる書物として書かれたはずの『古事記』を、今一度改めて聖なる書物として読み解いたとき、何が読み取れるのかを明らかにするのは意味があると思っている。神学は生まれなくてもキリスト教に頼らなくても神学的思考を紡ぎ出すことができれば、日本のスピリチュアルは、もう少し先に行けるかもしれない。


■本居宣長のかけたダブルバインド

『古事記』が本居宣長によって再発見されたとき、日本は、その固有の神学を生み出す最大のチャンスを得たが、それを活かすことができなかった。それは、本居宣長自身のせいでもある。

本居は、それぞれの国には、それぞれの自然状態の心のありようがあると考え、日本列島に生きる人々のそれを「大和心やまとごころ」と呼び、それを最もよく伝える書は『古事記』であるという信念を持っていた。

大和心やまとごころ」は、カミと人とが作る世界に生きる人々の自然状態の心のありよう(真心)で、それは、漢籍からぶみに見られるかしこぶり虚飾の多い「漢意からごころ」の影響の及ぶ以前の日本の古代に見出されるとした(『玉勝間』など)。

漢籍からぶみにいへるおもむきは、皆かの国人のこちたきさかしら心もて、いつはりかざりたる事のみ多ければ、真心にあらず。

『玉勝間』

この指摘自体は非常に分析的で、本来の日本らしさである「大和心やまとごころ」を、賢ぶり虚飾の多い「漢意からごころ」に対置したところまではよかったが、「大和心やまとごころ」の根幹に据えたのが「もののあはれ」であり、この「あはれ」は、言語化以前の心の情動であったことが、日本に神学が発生する芽を抑え込んでしまった。

さてかくのごとく、「阿波礼あはれ」といふ言葉は、さまざま言ひ方は変りたれども、そのこころはみな同じことにて、見る物、聞くこと、なすわざにふれて、こころの深く感ずることをいふなり。俗にはただ悲哀をのみ「あはれ」と心得たれども、さにあらず。すべて「うれし」とも「をかし」とも「楽し」とも「悲し」とも「恋し」とも、こころに感ずることはみな、「阿波礼あはれ」なり。

『石上私淑言』巻一

宣長自身は非常に分析的に「大和心やまとごころ」に迫っていたのだが、「大和心やまとごころ」は感覚的に捉えなければならないということがダブルバインドとなり、それを最もよく伝える書『古事記』を分析的に理解する道=日本の神学に至る道を封じてしまったのだ。

ダブルバインドとは、二つの矛盾したメッセージを同時に受け取ることで、どちらの選択肢を選んでも罪悪感や不安感のような心理的ストレスを抱えてしまうことを言う。

例えば、部活動などで一生懸命やっていたのに上手くできず鬼コーチや先輩などから「ヤル気の無い奴はさっさと帰れ」と言われる場合がそれにあたる。
この場合、言われた方がさっさと帰えればヤル気がないことになる(=一生懸命やっていた自分を欺き否定することになる)が、残っていても期待にそう動きができない(ヤル気がないように見える見方を変えられない)。
そこで、「ヤル気が無い奴は帰れと言っただろう。聞いていたのか。」と追い打ちをかけられてしまう。むろん言う側は、言われた側が言葉どうりに帰ることは期待していない。むしろ、残れというメッセージ(命令)が見え見えであるため、それを聞いた側は、どうしたらよいか混乱してしまう。帰ることも残ることも「俺の命令が聞けない」ことになるダブルバインド状態である。これは呪縛である。

本居宣長は、『古事記』に知らずのうちにダブルバインドの呪いをかけてしまったのだ。

さて、ダブルバインドから抜け出すには、どちらかのメッセージを選択し、そのことを相手に伝えなくてはならない。

部活の例では、「能力が無いのでヤル気が無いように見えますが、ヤル気はあるので残ります。」あるいは「ヤル気はありましたが、無くなりましたので帰ります。」と言って、言ったことにあった行動をすればよい(そのことで命じた側の気分を損ねるかもしれないが、言い方に反抗的な態度を少しも混ぜなければ、事態はより悪化することはないだろう。少なくともダブルバインドからは脱出できる)。

相手の気持ちが分かるからダブルバインドにかかるのだが、論理はその呪縛を切ることができる。

『古事記』を分析的に読み進め、「大和心やまとごころ」に迫ることで、宣長がしつらえてしまったダブルバインドから脱却し、『古事記』の扉が開かれる。


■「ことあげ」の誤解

神道ないしは日本人が情緒に偏りがちな原因を、「ことあげ(言挙げ)」を嫌う文化にあるとたまに言われたりするが、それは無意味である。

現代人は「ことあげ」を、物事をはっきりという、理屈を言うなどの意味で使うが、『古事記』に書かれているのは、それとは真逆の意味だからだ。
このような誤解が生まれたのは、『古事記』にかけられたダブルバインドのせいではないかと考えている。
大和心やまとごころ」は感覚的に捉えなければならないということが縛りドグマとなり、『古事記』の字面を目で追っても、そこに書かれていることを素直に受け取れなくなってしまったのではないか。

『古事記』原文では、ヤマトタケルが伊吹山の白猪を、本当は神そのものであったのに、神の使いだと根拠もなしに断じたことを「ことあげ」としている。つまり、根拠もなしに思い込みで断ずることが「ことあげ」なのだ。

しかも、ヤマトタケルは、言挙げの為に命を落とす。つまり、『古事記』に書かれているメッセージは、根拠もなしに思い込みで断ずることは致命的な禁止事項だということなのであり、『古事記』は分析的に読まれることを求めていることは明らかである(*8)。

悲しいことに、スピリチュアルを実践している人の中には、思い込みで他者を断じて顧みない人たちが少なからずいる(*9)。『古事記』のメッセージが届いていないのである。

スピリチュアルに、明治維新以前にはあったであろう感覚と体験と思考の正三角形を取り戻したい。


◎註釈

*1 このことに言及した書籍はいくつかあるが、『ぼくたちが考えるに』(チャールズ・レッドビーター)が分かりやすい。

*2 英文だが、以下で読める。

*3 シンギュラリティが話題になる前に訳されたため、邦題は『ポスト・ヒューマン誕生』とされている(原書が大部なためか一部訳が省かれている。NHK出版)。

*4 ユニテリアンはキリスト教を逸脱したと考える人もいるが、それにしても神学的思考の結果であり、超教派のキリスト教系大学であるICU(国際基督教大学)は、ユニテリアンをキリスト教と認めている。

*5 これはキリスト教をdisっているわけではない。関係無いものを削いでいって残ったものがキリスト教の力と示せるわけであり、このような方法論はプロテスタントの一部とも親和性が高い。

*6 もちろん、森本あんり東京女子大学学長のことではない。『反知性主義』(新潮選書)は、神学的思考の知的威力の凄さを教えてくれる。

*7 この本を先入観を排してきっちり読むと、キリスト教のかなりディープなスピリチュアルガイドにもなることは内緒である。

*8 分析的に読むことは、情動的に読むことを否定しない。どちらかならばどちらかではないというのは二元論的で、多神教にはふさわしくない。

*9 このことについて、以前に以下のエッセイを書いたことがある。


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