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縄文と『古事記』<下・土偶付き土器が語る縄文とジェンダー>(『古事記』通読㉔ver.1.11)

※連載記事ですが、単独でも支障なくお読み頂けます。初回はこちら
※「縄文と『古事記』」の3回目です。1回め<上>はこちら

最近、土偶が流行ってきていてうれしく思っています。土偶って、単独で存在する他に、縄文土器の装飾にもなっているんです(後述します)。土偶と縄文土器の関係って、まるでモビルスーツとモビルアーマーの関係、もしくはグフとドダイ(共にファーストガンダムから)の関係みたいですよね。

さておき。

「縄文と『古事記』」の初回<上>(通読㉒)では、独神(ひとりがみ)など独特に思われた『古事記』のジェンダーが、縄文土器にも見られることを明らかにしました。

前回<中>(通読㉓)では、現代に視点を移して、そのような日本のヴァナキュラー(土着的・本来的)なジェンダーが失われてしまったことの社会的な影響について書いて見ました。←評判よかったです。ありがとうございます。宮台真司先生にリツイートしてもらって感謝。

今回<下>は、独神(ひとりがみ)に続く神世七代の後五代の男女対の神々もまた縄文土器や土偶に見られる日本のヴァナキュラーなジェンダーであることを踏まえなければ神世七代が示す世界観は分からないということについて書いていきます。

■妻か妹か、不毛な二択

『古事記』の冒頭の神々は、一番最初の天之御中主神(アメノミナカヌシの神)から神世七代の二代目である豊雲野神(トヨクモノの神)まで、独神(ひとりがみ)と呼ばれる今の言葉で言うところのノンバイナリー(男女の区分が意味をなさない=男女の二分法(バイナリー)を視座としたジェンダーレスとは異なる)な神々が続きます。

このような独特の男女観は現代の我々の男女観とはかけ離れたものですが、同様の男女観を縄文土器にも見いだすことができます(通読㉑「縄文と『古事記』<上>)。現代社会に失われてしまった日本のヴァナキュラー(土着的・本来的)なジェンダーと呼ぶべきものです(通読㉒「縄文と『古事記』<中>)

表・古事記冒頭の神々

独神(ひとりがみ)に続く神世七代の後五代は、男女対の神々になのですが、安心してしまうのか、多くの研究が現代風の男女観を投影した解釈となっています。

例えば、「妹」を姉妹の妹の意味に捉えるのか「女性」と解釈して妻と捉えるのかといった議論がそうです(西郷信綱『古事記注釈』第一巻p.121他多数)。

少し考えれば、兄弟姉妹というのは家制度や戸籍を前提とした家族構成であって、親がいなければ成立しない概念であるため、親神から生まれたのではない神世七代の神々に兄妹の関係が成立しないことはすぐに分かります。

同じ親から生まれたわけではない赤の他人の二人も養子であれば兄妹の関係になりますが、家制度や戸籍がなければその二人は兄妹とは呼ばれません。

また、イザナキ・イザナミには婚姻のエピソードがありますので、「妹」を妻としてしまうと、イザナミは最初から妻として誕生したことになり、婚姻のエピソードが意味をなさなくなってしまいます。

つまり、神世七代の後五代の男女対の神々は、兄妹の関係にも夫婦の関係にもないのです。現代の男女観ではその二択以外の選択肢を持たないために、不毛な議論が長らくされてきたのです。

近現代の男女観は現在は支配的ですが、そのシェアを横に置いてしまえば、多様な男女観の一例に過ぎないことを人類学は教えてくれます。↓

とらわれない目で縄文土器や土偶を見てみれば、独神(ひとりがみ)だけでなく、神世七代の後五代の妹でも妻でもない男女対の関係を見いだすことができます神世七代の後五代の男女の関係もまた、日本のヴァナキュラーなジェンダーなのであり、そう考えることで神世七代の世界が明らかになってきます。

以下は、主に『考古学講義』(2019年・ちくま新書)第3講「土偶とは何か」(瀬口眞司)を参考に論考を進めていきます。この新書は、帯に「考古学の最先端がこの一冊でわかる」とあり、この最先端の研究成果が『古事記』の冒頭を読み解く上で助けとなります。


■1+1=1な土偶

下の写真は、縄文のビーナスとして有名な、長野県茅野市の棚畑遺跡から出土した縄文時代中期の土偶です(茅野市尖石縄文考古館保管・国宝・写真出典:文化遺産オンライン)。

縄文のビーナス

この土偶は、人物像として見れば奇妙な形をしていますが、それは、異なる二体の合体像だからです。へそから上の妊婦像の腹部がちょうど下の人物像の顔面の位置に来ています。

このように「二名の人物」を一体化したと見られる土偶は数多く見られます。瀬口氏によれば、それらは「不完全な二体が取りつき、取りつかれることで一体の完成した像へ近づく状態を写したものに他ならない」(前掲書p.72)のです。

それでは、二体の合体は何を目的としているのでしょうか。


土偶は、フィギュアとして存在するだけでなく、土器の意匠としても用いられます

次の写真は、山梨県鋳物師屋(いもじや)遺跡の土偶装飾付土器です(写真出典:「文化遺産の世界」)。

土偶装飾付き土器

この土器には、土偶が抱きついている様が装飾として施されています。注目すべきは、頭部と胴体部が切り離されていることで、これも二体の不完全な人体が一緒になって土器に取りついている様子を表しています。

瀬口氏は土器を「うつろな器」と表現し、土偶はうつろな器に取りつくものと解釈しています。


次の写真は、同じ鋳物師屋(いもじや)遺跡の「子宝の女神」とされる土偶です(写真出典:「文化遺産の世界」)。

子宝の女神

肩の部分に突起がありますが、これは他の土偶との形態的比較から、下に生えている腕とは別の腕がそこにあることを表しています。「縄文のビーナス」の上部の十字状の人体像の腕の表現と同じです。
つまり、この「子宝の女神」も「不完全な二体が取りつき、取りつかれることで一体の完成した像へ近づく状態を写したもの」なのです。
そして、その長い手は、自らを抱くようなポーズを取っています。この土偶は中空ですから、土偶自身が「うつろな器」です。

土偶とは、「本来何かの形で「うつろ」をその身体に伴うものであり、幾重にも取りつき、取りつかれることで一体の完成した像へ近づくもの」(前掲書p.81)なのです。

ここで、瀬口氏は「幾重」と表現していますが、三重や四重に合体している土偶は見つかっていません。このことから私は、合体するものが二つであることに特別な意味があったと考えています。

「うつろ」とは、まだ実態となる前のなにものかです。それに対して二つが一体となって取りつくことで、現世に形をとって現れることが可能になる、そのような信仰(発想)が縄文時代にあったのだと思われます。


■人を超える二つ

合体して二つが一つになるものは人体像に限りません。次に紹介する土器は、山梨県須玉町津金御所前遺跡(縄文中期)の顔面把手付深鉢土器(下写真・写真出典:山梨デザインアーカイブ)ですが、上部の他に壺の中央に顔が付いています。

顔面把手付深鉢土器

その中央の顔のまわりにある意匠は、様々な他の土器との比較検証から、カエルとオオサンショウウオ(またはマムシ説などあり)が結合したものの擬人化だと言われています(小林青樹『倭人の祭祀考古学』pp.29-32、また、「縄文中期の抽象文世界」末木健・山梨県埋蔵文化財センター『研究紀要26』 2010年)。

カエルは多産であり、女性の象徴です。カエルは擬人化される段階で、背中に女性器を持ち、顔面把手付深鉢土器ではそこから子供が顔を出す様子を描いています。オオサンショウウオは男性の象徴で、長い手を持ちます。その両方の特徴を併せ持ったのが、顔面把手付深鉢土器の壺の中央のデザインです。

これまで参照してきた論考から、まだ生まれぬ形のないなにものかに、聖なる二つが一体となってそれを擁することで、新たな何かが形をとって現出するという信仰(発想)が、日本列島に居住していた縄文文化の担い手たちの基(もとい)の思想だったことがわかります。

男女がカエルとオオサンショウウオに抽象化されていることは、個別の男女の交わりが子どもを生むという考えの枠を超えて、形態の異なる聖なる二つが対になることで新たな聖なるなにものかが誕生するという思想であることを示しています。

★マニアック注釈(読み飛ばし可能です♪)★
 この顔面把手付深鉢土器を表紙にした『精霊の王』という本があります(中沢新一・2003年・講談社)。中沢節が堪能できる一冊で(失礼!)、「石の神(シャクジ)を結節点に、柳田国男と金春禅竹との間に回路を通し、猿楽の根底に縄文期からの日本の霊性を見るというコスモロジーが展開されます。
 その是非を判断する能力は私にはありませんが、顔面把手付深鉢土器についての記述は大変魅力的に書かれています。
 曰く、「土器でつくられた「壺」そのものが、新しい生命を生み出すマトリックス(子宮)として思考されていたことになる」「土器の内部に封じ込められた」「空間は、「クラインの壺」のようなトポロジーをしている。内部と外部の区別がなく、生はいつしか死の中に溶け込み、死の中からふたたび新しい生があらわれてくる。これはドリームタイムの空間と同質のものではないか」(前掲書 pp.297-298)。
 ドリームタイムとは、オーストラリア・アボリジニの世界観で、心のおこなう内的な体験と物資でできた外的な体験とが一つになって絶え間なく世界をダイナミックに創造していくプロセスのことです(中沢新一『神の発明』講談社選書メチエ p.67)。まさにエリアーデの「聖なる時間と空間」です。


■縄文土器が示す神世七代後五代の関係

天之御中主神(アメノミナカヌシの神)に始まった別天つ神(ことあまつかみ)の世界は、天之常立神(アメのトコタチの神)の働きによって高天原に「聖なる時間」がもたらされ(通読⑭)、閉じられます。

その時間は、国之常立神(クニのトコタチの神)から始まる神世七代の時空間に投射されます(通読⑱)。そして、神世七代の空間は高天原の空間を拡張したものであることが二代目の豊雲野神(トヨクモノの神)によって示されます(「原」に対する「野」、通読⑳)。

ここまでが、独神(ひとりがみ)の創り出した世界です。

三代目からの独神(ひとりがみ)に続く神世七代の後五代の物語は、上に見た土偶や縄文土器が示すとおり、まだ生まれぬ形のないなにものかに、聖なる二つが一体となってそれを擁することで、新たな何かが形をとって現出する物語です。

以前に、神世七代の神々がどういった神々であるかについては定説がなく、国文系の学会で共有されている主立った3説のどれもに有力な批判や矛盾点があることを書きました。↓

『古事記』の創世神話には間違いなく縄文からの思想が息づいていることを踏まえれば、4番目の説が浮かび上がってきます。

私の説のスタンスは、上記3説のように神世七代の後五代の男女対の神々が何を表しているのかを直接あれこれ考えるのではなく、顔面把手付深鉢土器のカエルとオオサンショウウオのような対の象徴になった男女対の神々とは何を示しているのか、代を重ねることで紡がれる物語を踏まえて考えるというものです。

顔面把手付深鉢土器の意匠を見て、カエルは女性だ、オオサンショウウオは男性だと指摘しても、顔面把手付深鉢土器の意匠の意義は分かりません。この説明(=上記3説)がダメな理由は、カエルとオオサンショウウオは、形態の異なる聖なる二つが対になることで新たな聖なるなにものかが誕生することを表していることを説明できないから、つまり、男女の対がカエルの雄雌の対やオオサンショウウオの雄雌の対ではなかったことを説明できないからです。

カエルとオオサンショウウオは異なる動物ですが、同じ水棲であり幼体の外形はよく似ています。子どもの頃は似ていて、成人するとはっきり異なる外形を持つところは人間の男女の関係の象徴とするのにふさわしいものです。

同じようなものから出て、はっきり異なる二者が結合し、それがまだ生まれぬ形のないなにものか(うつろ)を擁することで、新たな何かが形をとって現出する関係に、神世七代の後五代はなっていなければならないのです。

(つづく)

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※タイトル写真は、山梨県須玉町津金御所前遺跡の顔面把手付深鉢土器(写真出典:山梨デザインアーカイブ
ver.1.1 minor updated at 7/15/2021(サブタイトルを変更し、冒頭加筆)
ver.1.11minor updated at 2021/7/31(項番を㉓→㉔に採番し直し)

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