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天之常立神(アメノトコタチの神)と聖なる時間<中>(『古事記』通読⑯ver.2.02)

※連載記事です。単独でもお楽しみいただけるように書いてはおりますが、前回(天之常立神(アメノトコタチの神)と聖なる時間<上>)から読まれた方がよりわかりやすいかと思います。
※なお、今回は、常立神(トコタチの神)についての記事としては3回目です。1回目はこちら
連載初回はこちら

現代に生きる我々は、ふつう時間と言えば「時計の時間」(時計が刻む時間)を思い浮かべます。
しかし、時計は昔からあったわけではありません。日本初の時計は、西暦660年の天智天皇の治世下であり、それは、統一された単一の「国家の時間」を刻む目的で造られました(「通読⑮」)。↓

時計が造られる前の時間は、「神話の時間」の時間に属しています。
それは、管理のための時間でありません。多くの現代人がむしばまれている虚しさやニヒリズム(=何をしたってどうせ変わらないよという無力感)から我々が抜け出すことのできる鍵が、「神話の時間」にはあります。それが今回のテーマです。


■「神話の時間」の完成

常立神(トコタチの神)の神名は、永遠かつ超時間性を意味する「とこ」が、しっかりと立脚しとめどなく湧き出てくる(=立)という意味を持ちます。天之常立神(アメノトコタチの神)の誕生によって、高天原は、完全な「神話の時間」を持つことになりした。

「瞬間」であり「一方向に連続する」時が「永遠」でもあるというのは、世界共通の「神話の時間」の特徴です。

『古事記』では、「天地初発の時」の「瞬間」から、「次に」、「次に」と「一方向に連続する」時にそって物語が展開してきました。
天之常立神(アメノトコタチの神)の誕生によって、「神話の時間」に必要な、最後の時の形態である超時間性が、とめどなく湧き出てくる現在の事象として、しっかりと天に備わったのです。

一方で、『日本書紀』には、この天之常立神(アメノトコタチの神)が登場しません

その代わりに、国家の時を刻む装置として導入された時計のエピソードが書かれています。ここに、『古事記』の「神話の時間」VS『日本書紀』の「国家の時間」という対立構造を見ることができます。ここまでが、前回(通読⑮↑)のおおまかな内容です。


■未来は時間ではない

天之常立神(アメノトコタチの神)が高天原にもたらした「神話の時間」は、たった今も新たに創造されている生きた時間です。したがって、その時間の延長である「野生の時間」では、「人はどうせ死ぬという虚しさ」の前提条件(二番目の前提条件:「通読⑮」による)である「現在から先も過去と性質において変わりはない」は、成り立ちません。

「野生の時間」というのは、<野生の思考>が働き、日々の生活を通して「神話の時間」を感じることのできる時間のことです。
古代日本では聖なる時間と俗なる時間は対立構造にありません。
古代では、俗(=日常)が「野生の時間」に接続しているからです。
古代では、聖と俗とは連続しています。

<野生の思考>では、未来は時間ではないのだから時間軸上にはないと考えます。今という時間は、いま創られているのですから、未来は存在しません。未来は時間ではないのです。そこには、存在しないものは存在しているものと同列には扱えないというロジックが働いており、未来は過去のように時間には勘定されません。

また、過去は、潜在する現在であると考えます。例えば、朝〜昼と夜が交互に訪れるのは、朝〜昼が訪れているときには夜が、夜が訪れているときには朝〜昼が、それぞれ出番を待っているのだと考えます(田中元『古代日本人の時間意識』吉川弘文館など)。

現代人は、朝〜夜をひとつにした1日という単位で考えていますから、過ぎた1日は、もう戻ってこない、時の彼方に消滅した虚しいものに感じます。
これに対して古代人は、夜が来れば、過ぎた朝〜昼は、明日の夜明けまで待機していると感じるわけですから、朝〜昼は過去になったとたん未来になります。消滅するのではなく待機にまわるだけですから、過ぎた1日を思って虚しく感じることにはなりません。


現在は「神話の時間」からの贈り物

現在とは、未来も過去もない「神話の時間」から、いまこの瞬間に注がれ顕現したものだと考えることができれば、現在は、「神話の時間」からの贈り物だということになります。

これが、古代日本人に限らず古代人の「現在/今」に対する感覚であることは、神話学者のエリアーデの指摘するところです。

どんな出来事も、それが生じ、時間の中に起こったゆえにこそ、ヒエロファニー(聖なるものの顕現)であり、「啓示」なのである。」(エリアーデ『聖なる時間と空間』p.99)

現在とは創造の奇跡であり、我々は今という時を通して創造の瞬間に立ち会っているのです。
この感覚を保証するのが「神話の時間」であり、常立神(トコタチの神)はその表象と捉えることが可能です。


■なぜ現代は厄介なのか

現代人も、「現在/今」について、「創造の奇跡」だと感じることができれば、人生の虚しさも解消してしまうはずなのですが、そう簡単にはいかないのが、現代という時代の厄介なところです。

例えば、常立神(トコタチの神)を信仰しても(常立神でなくても「今」を創造する神であればどの神でも一神教の神でも)、何をしたってどうせ変わらないよという無力感をまったく感じずに生きることは、なかなか難しいという現実があります(全然難しくないですよーという人生の達人な方は、以下は、難しい人もいるんだ、ふむふむ、くらいのノリで読んで頂けたら幸いです)。

「神話の時間」を感じることが極めて難しい(=常立神(トコタチの神)の意義が働きにくい状態にある)のが、現代の特徴です。

ここを、天之常立神(アメノトコタチの神)は隠身おんしん(=独神ひとりがみ以外の神々や人間からは認識できないようにされている)ために、こと天つ神は直接私たち人間に働きかける神さまではないのだから仕方がないなどという説明で済ませるわけにはいきません。

我々の役に立つ立たないで神々の意義を判断することは、神々が我々に隷属していることになるのでナンセンスではありますが、せっかく『古事記』を読むのですから、古代人の智慧に学ばないのももったいありません。

そこで、もう少しこの問題を掘り下げてみることにします。


■時計と接続した「自然の時間」の末路

現代の我々に、常立神(トコタチの神)の意義が働きにくい理由は、現代人は、隠者にでもならない限り近代的な日常の時間を放棄して「神話の時間」と結びついた「野生の時間」に生きることはできないからです。

我々は日常の時間を全て「時計の時間」として生きています
一方、かつての日常の時間は「自然の時間」そのものであり、それは「神話の時間」と連続した「野生の時間」でした。

「日常の時間」=「自然の時間」=「野生の時間」⊂「神話の時間」

という恒等式が成り立っていたので、日常の中で「神話の時間」につながることができたのです。

しかしながら、社会が一度、時計という時の管理装置を取り入れてしまうと、「自然の時間」は「時計の時間」と接続されることを余儀なくされてしまいます。

こうして社会化された「自然の時間」は、「野生の時間」としての意味合いを急速に失っていき、ローカルな時間に成り下がります

「時計の時間」は単一の基準時であり、この性質から、すべての「自然の時間」が、「時計の時間」と対比される<社会に固定された時間のバリエーション>(=ローカルな時間)となってしまうのです。

このように「時計の時間」を基準とする社会では、鶏の時間や牛の時間、海の干満による潮汐時間などすべての時間は「時計の時間」の補助手段になりさがります。それが、時計と接続した「自然の時間」の末路です。


■日常の時間の変質

「自然の時間」は「時計の時間」と接続することで、末路的ではあってもローカルな時間に変質して存在を続けることが可能です(「自然の時間」の俗化、家畜化、栽培化)

一方、「野生の時間」は「時計の時間」の中に生きることはできません。

「野生の時間」というのは、<野生の思考>が働き、日々の生活を通して「神話の時間」を感じることのできる時間のことですから、鶏の鳴き声や海の干満に時間を知っても、それらが時計の時間を思い出すものであれば、それらは「自然の時間」ではあっても「野生の時間」ではありえません。家畜化・栽培化された野生というのは語義矛盾であり、ありえません。

そして、「時計の時間」を取り入れた社会は、二度と日常の時間を「野生の時間」に明け渡すことはありません

「時計の時間」の効能は言うまでもありません。
近代的な「時計の時間」を放棄してしまえば、会社は事業計画など立てられませんし、お店は品切れを予測して仕入れることもできません。過去の反省を活かした未来はありえなくなり、豊かさは失われ、社会は崩壊してしまいます。
「時計の時間」の方が圧倒的に便利であるがゆえに、日常に「野生の時間」の生息余地はないのです。いまさら日常の時間を「野生の時間」にすることは不可能です。

こうして日常の時間は、「野生の時間」から、社会生活にとってより便利な「時計の時間」にすっかりととってかわられ、「野生の時間」は日常の時間から消滅します。
日常から時間の聖性が失われて、日常は俗なる時間になり、時間の聖俗分離が成立します。

「日常の時間」=「時計の時間」≠「野生の時間」

という関係に変化したのです。


■「聖なる時間」の変質

ただし、人間とは何らかの形で「神話の時間」との接続を求める生き物ですから、日常の時間から「野生の時間」が消えてしまうと、いっそう「聖なる時間」が貴重なものになってきます。

ところが、「野生の時間」から「時計の時間」となった日常の時間は、「聖なる時間」と断絶しています(時間の聖俗分離ゆえ)。
ここで起こるのが「聖なる時間」の<家畜化・栽培化>です。「聖なる時間」は、管理された儀礼や祭りの中に隔離され、まるで畑の植物や家畜動物のような存在になっていきます

かつて「野生の時間」の特別バージョンだった「聖なる時間」は、家畜化・栽培化されたことにより、「野生の時間」とは異質の時間に変化してしまっているのです。

先ほどの恒等式に「聖なる時間」を組み込めば、

「日常の時間」=「野生の時間」(⊂「神話の時間」)⊃「聖なる時間」
から、

「日常の時間」=「時計の時間」(≠「野生の時間」)⊃「聖なる時間」
への変化

です。

現代に生きる我々にとって、祭りの後がどこか虚しいものに感じられるのは、「聖なる時間」が「時計の時間」の中に回収されてしまうからです。

時を超えた時である「神話の時間」にアクセスすることを目的としていた「聖なる時間」は、もはや<家畜化・栽培化>され、等間隔な時の目盛の中から出られません。
二度と戻らない過去と化すことがわかりきっている「聖なる時間」での滞在時間が、予定通りに過去として失われるのですから、虚しく感じるのはあたりまえの帰結です。


■虚構化される「神話の時間」

本来、我々をを虚しさから解き放つはずの「聖なる時間」は、「時計の時間」に組み込まれているがゆえに、それ自体が虚しさを感じさせる装置として働いてしまいます。

「時計の時間」は、時間で測れるものすべてを、ものさしの目盛の中に納める強力な組み込み作用を持っています。我々の人生も例外ではありません。

我々が、人生に虚しさを感じ、死や歴史の終末を未来に見て絶望するのは、ものさしが容赦なく個人の人生に介入してくるからです。時間のものさしは、道具であったはずなのに、もはや、捨てたり、しまったり、隠したりできるようなものでは無くなり、我々はものさしの世界の中に生きることを強要されます。

いったん、等間隔に並んだ時刻の目盛の中間地点のどこかに現在の私があるのだと思ってしまえば、過去と未来は、ものさしの左右の区別以外には差のない同質なものに見えてしまいます
このような認知を経験してしまうと、時間は、いま創られているのだから全般的な未来は存在しないんだとは、とても思えなくなってしまいます。

「神話の時間」の<虚構化>

です。

虚しさを感じさせない根拠としての「神話の時間」が、虚構としか思えなくなってしまえば、虚しく感じるのはあたりまえです。これが、現代の特徴です。


■「神話の時間」を捨てる「聖なる時間」

私たちのほとんどは、こういった人生の虚しさに耐えられるほど強くはありません。また、強くならなくてはいけないということもありません。

そこで、虚構としか思えなくなってしまった「神話の時間」のかわりに、ささやかな「聖なる時間」を日常に取り入れる試みが始まります。

パワースポット巡りでも、宗教的なサークルでも、個人的なちょっとした儀式の時間(アロマを焚いて占いをするとか)なんでも良いのですが、日常の時間から抜け出せる「聖なる時間」は、それを個人が心底信じていようといまいと、こうした虚しさに対抗する手段になり得るからです。

儀礼や祭りからはみ出した「聖なる時間」は、「神話の時間」との接続を問わなくても、人生の虚しさを忘れさせてくれる存在になったのです。

儀礼や祭りなどの「時計の時間」に組み込まれた「聖なる時間」は、その時間に限ってはいても「神話の時間」と接続できていたからこそ「聖」であったのですが、「神話の時間」が虚構に思えてしまえば、「聖なる時間」が「神話の時間」と接続する理由が無くなります。

だからこそ、現代社会の「聖なる時間」は、儀礼や祭りなど「神話の時間」と接続されることを前提としないものである必要があり、また、それ自体が「聖」なるものとして認識される必要があったのです。


■スピリチュアル依存症

もはや「神話の時間」との接続を必要とせず、それ自体が「聖」なるものとして認識され自立した存在となった「聖なる時間」にも急所はあります。

それは、どんなに自立した存在となっても、「聖なる時間」は必ず「時計の時間」の中に回収されてしまうということがもたらす問題です。

「聖なる時間」を長く取れば取るほど、「聖なる時間」から抜けたあとの虚しさは強まっていきます。

「聖なる時間」を抜け出せば、それだけ時の目盛が進んでいたことに気づき、いっそう虚しさが募るからです。

この虚しさを嫌がって、隔離された場所に逃げ込み、より長く「聖なる時間」に耽溺する。あるいは細切れの「聖なる時間」への滞在回数が増えていく。こうして「聖なる時間」への依存が始まってしまうと、「聖なる時間」に逃げ込む時間は、加速度的に増えていき、やがて日常生活に支障をきたしていきます。

こうなってしまうと、もう依存症です。

私が以前、親しくしていた経営者の方もそうでした。

この方は、当初は、ここぞという時にだけ占い師のアドバイスを受けていたのですが、そのうちほぼ全ての経営判断をあおぐようになり、ついには人間関係もその占い師の占いを超えたスピリチュアルなアドバイスによってのみ決めるようになって、交友関係の切断が唐突にされるようになりました。

本人には依存症の自覚はありませんが、自分で自分の行動をすっかり決められなくなってしまっていますので、はたからみれば依存症と変わりありません。

スピリチュアルなアドバイスの否定や批判ではなく、他者からのスピリチュアルなアドバイス抜きには自分では何も決められない状態に陥っていることの異常性が問題なのです。


■虚しさは個人の問題ではなく社会問題

現代に生きる我々が蝕まれている虚しさは、もとをたどれば、時計が社会のインフラになったことに起因するのですから、本当は社会問題です。

社会問題としての人生の虚しさを、個人の問題として克服しようとするのは、無理な話です。そこを無視して、社会問題の構造に目を向けずに人生の虚しさを克服しようとすると、人生に無理が生じます。
その極端なケースが、依存症です。

現代社会の依存症というものは、アルコール依存症にせよ、買い物依存症にせよ、ゲーム依存症にせよ、いっとき現実を忘れてくれる非日常の瞬間への耽溺ですから、この点において、すべては同じ構造です。

スピリチュアルも、同じです。

オウムを経験した日本は、神秘に対して素直な感性を大切にしながらも同時に慎重かつ理性的であることが求められます。

「神話の時間」を忘れてしまった「聖なる時間」は、社会がふたたび「神話の時間」との回路を「聖なる時間」に回復するまでは、アルコールやゲームやSNSと同様に、「ほどほどにたしなむもの」にしなくてはならないのです。

依存症が良くないのは、自分も周囲も不幸にすることだけではなく、あまりにも個人に引き起こされる問題が大きいばかりに、それを社会の問題として解決しようとする発想やエネルギーを根こそぎ奪ってしまうところにあります。

そして、もし本人や周囲にスピリチュアル依存症の自覚があれば、他の依存症の処方箋が適用できます。例えば、こんな漫画があります(↓)。

依存症と直接は関係のない人も、こうしたマンガなどを通して依存症の知識を身に付けて、社会に依存症についての理解が蓄積されていくことでしか、依存症的でない「聖なる時間」についての関心は、高まっていかないのかもしれない。そう思う時があります。

依存症を上手に避けることのできる社会なら、常立神(トコタチの神)の神威も働きやすくなるのではないでしょうか。


■社会に「神話の時間」を取り戻す

社会がふたたび「神話の時間」との回路を「聖なる時間」に回復するにはどうしたらよいのでしょうか。

ひとつは、人々が「社会」を思うことだと思います。

自分の苦しさを解消したい、世界の不幸を救済したい。スピリチュアルを欲する動機は人それぞれかと思いますが、そこに「社会」への関心も加えたい。

「社会」とは、よき友人や仲間と、自分にまったく理解できない人、関わりのない人の複合的な集合体です。

「社会」と「世界」との違いは、「世界」は広すぎるために、自分にまったく理解できない人、関わりのない人のことは無視できますが、「社会」はそうもいかないことです。「世界」と「自分」の中間項が「社会」です。

『古事記』はこれを「くに」と表現しました。『古事記』には、自分(天皇も含まれます)の理解を超えた出来事がたくさん出てきます。自分の一方的な理解で相手を分かったつもりになったために命を落とすはめになった天皇家の一族の話まであります(伊吹山の神の話)。

見たくないものを見なくて済む世界は、社会がない世界です。それは、『古事記』の「くに」とは真逆の世界であり、そこに「野生の時間」はありません。

時間の目盛の中の現代でも、何か神聖なるものに触れて自己が変わり「かたじけなさに涙こぼるる」(西行)ような境地になって、瞬間が無限(永遠)であることを感知することはあると思います。

でも、それが個人の体験に留まったままでは、「神話の時間」への回路は開かれません。

なぜなら、「神話の時間」は未知を含有していなければならないからです。

「神話の時間」は、たったひとつの基準時に収斂されていく時間ではありません。その反対に、八百万やおよろずの時間があるのが「神話の時間」です。八百万やおよろずの時間は、八百万やおよろずの人々や事象に基づく時間です。

自分にまったく理解できない人、関わりのない人たちと、理解できないまま、関わりのないままに平和裏に共存できる社会ができなければ、個人がいくらスピリチュアルを極めたところで、社会に「神話の時間」との回路は開かれません

いっけん多様な社会に思えても、パターンがひとつならば、個性の多様性がいくらあっても、それは単調な社会だからです。社会がふたたび「神話の時間」との回路を「聖なる時間」に回復するには、予期せぬパターンを無数に包含する社会を創っていくことが、まずは第一歩となるはずです。


■理性が社会を創る

スピリチュアルを「ほどほどにたしなむ」ことが、我々にとって健全なことであっても、「ほどほどにたしなむもの」であることが「聖なる時間」にとっても健全な状態であるのかどうかは別問題です。

現代は、常立神(トコタチの神)の意義が十分に想像できない状況にあるからこそ、現代人にとってその意義は重要であるという矛盾があります。

その矛盾を解く鍵は、常立神(トコタチの神)が隠身おんしんであること(独神以外の神々や人間からは認識できないようにされていること)の意味にあるように思います。

それは、恐らく、キリスト教のトマス・アクィナス神学が、神は自ら顕現した場合を除き人や天使にはその姿を見ることはできないけれども、ただ智を磨くことによってのみ神を見ることができると説くのと同種のものです。

天使の中には神を見ることのできる天使(ケルビム)もいるけれども、それは視覚として見るのではなく、智慧によって見ることができるのだそうです(プロテスタントの一部や東方正教会では、神は智慧によって見ることができないと考えられています)。

少し神学的な表現で言えば、常立神(トコタチの神)は、隠身おんしんであることで、我々に十分に理性を働かせることを求めています。現代日本のスピリチュアルの多くは、いささか『古事記』の描く世界観から離れすぎてしまっているように思います

つづく

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※タイトル写真は、klickblickによるPixabayからの画像
ver.1.1 minor updated at 11/22/2020(「■「聖なる時間」の落とし穴」について一部加筆)
ver.1.2 minor updated at 11/23/2020(日本語としておかしなところを修正)
ver.1.3minor updated at 11/23/2020(■天之常立神の現代的な意義」に「野生の時間」の定義を追加し、「■時計と接続した「自然の時間」の末路」の”「聖なる時間」と連続した「野生の時間」” を ”「神話の時間」と連続した「野生の時間」”に訂正)
ver.1.4 minor updated at 12/5/2020(「流れる時」をより正確に「一方向に連続する時」に修正。また、日本語として意味が通りにくい箇所を修正。)
ver.1.5 minor updated at 12/6/2020(恒等式に「神話の時間」を追加)
ver.2.0 minor updated at 4/4/2021(目次を追加し全般的に加筆修正)
ver.2.01 minor updated at 2021/7/31(項番を⑮→⑯に採番し直し)
ver.2.02 minor updated at 2021/12/28(ルビ機能を適用しました)

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