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映画『アナと雪の女王』(2014年)は、グローバル化社会の終わりを予言していたんじゃないかという話

2014年に公開されて世界的に大ヒットし、レリゴー♪の歌も人気爆発した『アナと雪の女王』が、その後のアメリカの姿の誕生を予見していた、という話を書こうと思います。その後のアメリカの姿というのはトランプ政権(2017年~)のアメリカです。

最近(2020年に書いています)は、再選が危ぶまれていると言われるトランプ大統領ですが、それまでグローバル化が加速する方向に一直線に進んでいた世界が、自国指向やブロック化へと方向転換をし始めたその予兆が、アナ雪にあったような気がするからです。

優れた作品がみなそうであるように、アナ雪には、時代の心理を先駆けて具現化してしまったようなところがあります。以下に書くのは、そんなお話しです(劇場公開時に某所に書いたものに加筆しました)。

---ここから先はネタバレありです。ご注意下さい。---


■アナ雪はトランプ政権のグランドデザイン

アナ雪は、トランプ政権誕生のグランドデザイン(青写真)になっています。と言っても、アナ雪の製作者はトランプ政権の誕生を知っていたと主張したいわけではありません(そう書いちゃった方がウケそうですが、確かめようがありませんからね)。

ドナルド・トランプ氏が大統領選に立候補したのは2015年の6月ですから、アナ雪が公開される2013年(日本では2014年)より以前ですし、トランプ陣営がアナ雪を選挙戦に利用したという話も聞いたことはありません。ただ、それまでのアメリカらしさの行き詰まりを示し、そのソリューションとして自国主義すなわち「アメリカ・ファースト」政策を掲げて選挙戦を勝ち抜いたトランプ大統領の誕生譚は、アナ雪の大まかなあらすじに重なります。このことについて考えたいのです。


■ディズニーらしさをスクラップにするアナ雪

私は、娘のお供でアナ雪を劇場に観に行く前は、松たか子の歌う日本語歌詞が「ありのままの自分になって~♪」なものだから、勝手に抑圧と解放の物語だと思っていました。よく考えたら、レリゴーはLet it go だから、ありのまま(=Let it be)なわけはないのですが、歌は歌として本編とは別物だと考えてあんまり気にも留めていませんでした。

 幼稚園の娘には、空気なんて読まずに能力を思い存分発揮するような子供になってほしいから、この映画はぴったりだなーなんて思って、妻と娘といそいそと映画館にでかけて行ったのを覚えています。

ところが、アナ雪は、私の予想を超えた映画でした。普通のディズニー映画だと思っていた私は、ありのままどころかディズニーのセルフパロディーの連続にびっくりしました。運命の王子と思っていた人は悪人だし、魔法は運命の人のキスで解けるのではない。本当の運命の人はにおいが臭い。それに白馬じゃなくてトナカイに乗ってやってくる。トナカイと言えばサンタだけれども、このサンタはプレゼントをあげるのではなくてもらう方です(最後のソリのシーンを言ってます)。主人公は、魔法をかけられた方じゃなく、どちらかと言えば魔法をかけた方。真実の愛は男女の愛じゃなくて姉妹愛。etc.etc.

ここまで定石外しばかり連続させるのは、セルフパロディーの域を超えて自己否定なのではないのか?ひょっとしてディズニーは、未来を創るためにはスクラップアンドビルドが必要だと考えて、これまでの自分たちの歴史を一生懸命スクラップにし始めたのではないだろうか?こんな疑問が浮かんできます。


■アメリカ的なるものの否定

それだけではありません。アナ雪が否定しようとしているのは、自分たちディズニーの歴史だけではなく、アメリカ人そのものなのではないでしょうか?

例えば、この映画の主要人物たちは女も男もみな意志と主体性に欠けています。
アナは、王国の夏を取り戻すのに最初から他の方法を考えることなく姉の能力のみをあてにします。
姉のエルサは、自分の意志で王国に帰るのではなく、王子に監禁されることによって王国に帰ることになり、凍って無機物のようになったアナを抱きしめることによって愛を解放します(アナが生き生きと動いているうちには、心の交流に一歩踏み出すことはないのです)。
王子は、最初から逆玉狙いの上(受け身!)、アナが死ぬと確信してから突如悪事を実行し始めます(棚ぼたから悪事)。
クリストフは、トナカイに促されないと愛のための行動が取れないヘタレです。

はた迷惑なまでに自意識過剰で主体的なのがアメリカ人だったのではないでしょうか。ディズニーが『アナと雪の女王』で否定したかったのは、アメリカ人という物語そのものだった???

以前にレディー・ガガのドキュメンタリーを見たときに、ステージを降りているときのガガがめそめそ泣くシーンがあまりに多いのでとまどったことがあります。アメリカ人は、男も女もマッチョをやめたがっていているのかなとその時に思いましたが、アメリカ人は、マッチョ信仰だけではなく、もっといろいろなものをやめたがっているのかもしれません。

いったんそのような思考に囚われると、ひょっとしたらオバマを大統領に選んだのも、マーチンルーサーキングの夢の実現ではなくて、WASP国家の自己否定の結果なのではないか、などとよからぬ妄想まで浮かんできます。でも、もし100%妄想というわけでもないのだとしたら…。


■自己解放と自己啓発の終わり

先ほど、ディズニーは、未来を創るためにはスクラップアンドビルドが必要だと考えているのではないかと書きました。では、この映画でビルドにつながる何かは提示されているのでしょうか。

それを考えてみるために、この映画最大のスクラップのシーンを考えてみます。最初に主題歌「ありのままに♪」(レリゴーの歌)が流れるシーンでは、エルサは自己の孤独の選択と能力の解放を同時に達成します。このシーンは、抑圧された自我を解放し、自分の能力を最大限に発揮しても問題は何も解決しないということを象徴しています。

エルサは自分の能力によって妹を傷つけてから引きこもりになったので、エルサが解決したいのは、人を傷つけない自己の能力の発揮の仕方であるはずなのですが、歌にあるように、自分の引きこもりを、親からの抑圧の結果と捉えたために、抑圧からの解放を主体的に選択し(トラウマを超克)、雪の女王となるくらいまで自分の潜在能力を最大限に発揮(自己啓発・自己解放)しても、本来の問題解決になっていない上に、他者からは、孤独(精神の自由の結果)は引きこもり(親の抑圧の結果)と区別がついていません。

つまりこのシーンは、自己解放と自己啓発の否定になっています。メイドインアメリカの2つの成功理論が、問題の本質的解決には何も効果がないとディズニーは子供たちに説いているわけです(綺麗な氷のお城が建つだけなんです)。主題歌のシーンということは、この映画の主題がこの種のアメリカ式個人強化主義をスクラップにすることだと考えてもいいのかもしれません。


■自国主義と凍結された世界

さて、エルサは様々な他人の行為の結果にのっかることで(王子に王国に引き戻されたり、アナの献身行為などの結果として)、偶然に愛が問題解決の手段であることを理解し、その応用として王国全土に愛を振り向けることで王国の雪解けを達成し、映画は終わります。アメリカ式個人強化主義を否定し、領域内へ愛を行き届けることがディズニーにとってのビルドだということなのかもしれません。

自己解放と自己啓発の否定はいいと思います(どこかうさんくさいし、『オースティン・パワーズ』のシリーズなんかでもネタとしてやっています)。ですが、ついでに個人の主体性を放棄して、孤立主義よろしく自国内への愛を解決だと謳うというのはどうなんでしょう。それがこれからのありのままの姿の提示なのだとしたら…。そう、アメリカ・ファーストですね。

子供向けの映画だからこそ、作り手の未来に対する意識無意識の思いが結晶化してしまうところがあると思います。それが全米だけでなく日本でもこれほど大絶賛され大ヒットするとは…。世界はアナ雪の時から自国主義を欲していたのかも

新型コロナウイルス禍で、グローバル化に急ブレーキがかかろうとしている昨今、その予兆はアナ雪からあったような気がしてなりません。アナ雪の英語タイトルはFrosenです。freeze-frose-frosen。凍結させられた世界のその先を見たくて、アナ雪2を待望していたのですが、その後に公開されたアナ雪2は、一作目の前日譚という設定でした。ハリウッドは、自国主義のその後の世界はまだまだ先だと思っているのかもしれませんね。

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