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「光る君へ」に思う“両面”

光る君へ
が、たいへん気になる。

「両方」の評がある。

1雅な貴族の文化


1000年前に「源氏物語」を生み出させた文化の高さ。知的営み、美意識の高さ。


しかしそこに、さわやかならざる醜い権力抗争の日常もあり、そんな苦難があってこそ「源氏物語」が書かれる契機もあり、その内実もあったことに思いを致す。

2名もなき庶民の境遇


一方、貴族ならざる庶民(という概念ですらないかも。そう、民草、ってことばはあったな。草だよ草WW)。

都にすら、路上に死体は放置され、犬がそれを食いちぎり、牛や犬の糞、汚物の撒き散らされた道。

貴族はだから牛車に乗って、そんなのを「見なくていい」で、風雅に取り澄ましていればよかったが、

貴族の着る絹の贅沢な衣服や、贅を凝らした住宅、調度品はもちろん「経費」のかかっているわけで、要するにそれは民草から搾り取った貢。



貴族など寄生虫のようなろくでもない連中だった、との見立てもそのとおりだ。

しかし庶民も血の通った人間で、感情もあれば思いもあり、仕事に活かす知恵のあるものあったし、ただ「使われる」だけの者たちもいただろう。

自分はどっちの末裔なのか?


答えは「両方の」末裔である。

1000年も昔に遡れば、私の先祖の数は億単位!
いろんなかたちで血も混じり合い、文化も混じり合ってきた、というのが実態だろう。

【参考】ご先祖を10代さかのぼると何人?20代さかのぼると何人?30代さかのぼると?
https://www.shuukatsu.blog/entry/senzonokazu

「自分の先祖は雅なる人(だけ)」と言える人はないし、一方「庶民だけ」と言える人もないと思う。

《結論》
源氏物語で描かれたような世界を、「自分の先祖」の生み出したものとして、愛で楽しめばいいと思う。大きく言えば「人類の宝」だ。

今の時代は、庶民のあまりに大きな犠牲や無知によって一部の特権階級が楽しむ時代ではなくなっていることにしっかりと思いを馳せながら楽しみたい。



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