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【哀れなるものたち】成長は、痛みと絶望の形をしている


凹んでても、飯が美味しくて悲しい

 映画『哀れなるものたち』を観た。お供は、大学時代からの親友。これまでどんな内容の映画であろうと乗り越えてきた私たちだけど、今回は様子が違っていた。いつもならシアターを出た瞬間に映画についてマシンガントークが始まるのだが、映画については一切触れずどうでもいい話をしながらサムギョプサル屋に向かった。
 そして、肉を一口サイズに切ってくれた店員の「もういいですよ」がまるで合図だったかのように私は映画について語り合った。映画の内容にショックを受けていたはずなのに、サムギョプサルは美味しくて、なんだかそのことがとても悲しかったのを覚えている。やっぱり食欲はすべてに勝つ。めちゃくちゃ私は人間。

 今回のnoteでは『哀れなるものたち』を見て私がどう感じたかを書いていく。正直、私が本作を正しく捉えられているか自信は全くない。なので、「あんたはそう思ったのね!」という軽いスタンスで読んでくれたら嬉しい。

 また、本noteにはネタバレが含まれる。まだ観ていない人たちは、ぜひ鑑賞後に会おう!

クローン技術の倫理観に関する映画かと思った

 私は『哀れなるものたち』について「自殺した女性に胎児の脳を移植する」ということしか知らず、本作はクローン技術に関する倫理観とかテセウスの舟とか、そういう話かと思っていた。実際はフェミニズム的な要素のある映画であり、胎児の脳の移植をきっかけに「性別に関する無意識の思い込み」から解放された主人公が冒険を通して"自分"を作り上げていく物語であるように感じた。

 主人公のベラは、成人女性の身体と新生児の頭脳を持ったアンバランスな存在で、その手術を行った天才外科医・ゴットとその助手・マックスに実験対象として観察されながら毎日を過ごしている。この倫理観ぶっ飛んだだ設定は、ベラがなるべく外的な影響を受けずに"自分"を作り上げていった結果を描く上で必要だったのだと思う。

 男性も経験することだとは思うが、女性は生まれてからたくさんの教育を受けている。「男だから」、「女だから」を強制してはいけないという考えが広まっている現代でも、完全にはこの教育は無くならないと思う。例えば、男兄弟が遊んでいたとしても、お箸を並べてと頼まれたり、性的な事柄について関心を持ったり話すことを下品であると叱られること。そういった教育を受けてきた女性たちは例え女性性から解放されようと藻掻いたとしても、女性であるということの呪縛から完全に解き放たれることは難しいと思う。

 でも、エラは違う。正しい実験結果を得るために閉じ込められていることによって、世間で求められる「女らしさ」を知らない。とんでもない設定はこの前提を作るために必要だったのだなと納得した。それと同時にここまでしなければ、女性は方向づけられることなく成長できないと言われているような気がして悲しかった。

1度刺されて、血を流して、自覚しろ

 ベラは旅の中でたくさんのことを学ぶ。閉じ込められていた彼女にとって、この旅は刺激的で魅力的な部分も多かっただろう。でも、彼女が1人の人間として、そして女性として成長する過程でたくさん傷つけられている。ベラは身体の自己決定権が脅かされる場面で、「私の身体は私の自由に決める」、「自分の身体を愛する」と言い放つシーンがある。こう言えるようになるまでにあらゆる支配や束縛、見当違いの軽蔑を受け、その度にそういった不当な扱いについて考えを巡らせ答えを出している。

 ベラが「私の身体も心も自分のものであり、自由に決定することができる」、「知的好奇心のままに行動し、誰かのために馬鹿なふりをする必要はない」、「女性が性的な事柄に興味関心を抱くことは決して軽蔑されることではない」と自分で気づき、その信条の元に行動する姿には胸が熱くなった。

 しかし、こんな当たり前のことのためにここまで踏みにじられなければだめなの?とも思う。ベラが1つ1つの障害を乗り越える中で、考えることや怒ることに疲れてしまう世界線だってあるんじゃないか。

他人を改善しようなんざ100年早いよ

 タイトルの『哀れなるものたち』とは何のことなんだろう。映画が始まったばかりの時は、ゴットの実験で作り出されたキメラやベラのことを『哀れなるものたち』と言っているのかと思った。

 でも、見進めているうちに『哀れなるものたち』とは他人を教育、コントロールしようとする人たちのことを言っているのではないかと感じた。映画を観ていて印象的な言葉の1つに"improve"がある。

 作中に出てくる男たちはベラを改善しようとしてきた。世間の、そして自分の常識の範疇で行動しない彼女を手中に収めようとするその姿は無様に描かれていた。しかし、最後ベラは自身の元夫を「improveする」と言って、彼の脳にヤギの脳を移植した。彼女は自分がゴッドにされた手術内容に嫌悪感を抱いていたはずなのに。彼女からしたら元夫は間違った思考回路を持った存在で、脳を改良しなければと思ったのではないか。最後のシーンを観て、ベラも同じ末路を歩んでいるように感じた。私にとってこの映画はハッピーエンドではない。

コンテンツ紹介:(G)I-DLE 『Super Lady』


 本日紹介するのは、私が愛し、尊敬するアーティストの1つである(G)I-DLEの新曲『Super Lady』である。

 彼女たちの曲からは、「女性が女性として生まれてきたことを誇りに思える世界を作っていくわ!」という革命の匂いがする。強い女性像を歌うアイドルは増えたが、彼女たちはエンパワーメントが主軸となっているという点で一線を画していると思う。誰かに歌わされているわけでも、役割を背負わされているわけでもない。自分たちで世界観を作り上げているという圧倒的な主体性が彼女たちをカリスマたらしめている。

 『Super Lady』のサビにこんな歌詞である。

Lady lady(レディ レディ)
Call me "Super lady"(私のことは”スーパーレディ”と呼んで)
Lady lady(レディ レディ)

Follow ladies(ついてきて、レディ)
Onward ladies(前に進もう、レディ)
Super ladies(スーパーレディたち)

 この曲を聴くすべての女性たちに彼女たちは呼びかけている。「私たちは、誇り高き最高の女たちでしょ。」、「私たちの歩みを止めようとするものは多いけれど、前進しよう。その先頭に私たちがなる。」と。胸が熱くなると同時に、彼女たちが背負ったものの大きさは計り知れないとも感じた。常に私たちの道しるべとなり、そして時には背中を押してくれる(G)I-DLEがこれからも煌びやかなステージでうねる歓声を浴び続けられるようにファンとして最大限のサポートをしたい。それが彼女たちの存在に支えられている人間の最低限の義務だと思う。

 『哀れなるものたち』を観て、ベラが冒険の中で強く賢い女性に成長していく姿にエネルギーを貰った。痛みと絶望を繰り返す中で”自分”という人間を作り上げ、理不尽と闘い勝利した彼女も間違えなく”Super lady”である。

 今日も読んでくれてありがとう!
最近、暖かくて嬉しいね。
また、noteで会おう!

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