見出し画像

ぼくのなかの日本(第32回、音楽の力)

音楽の力

人間はどのようにして、自信を身に着けていくのだろうか。成功体験を重ねればもちろん自信満々な人間が育つだろうが、「成功体験」というもの自体、実にあやふやである。周りが羨望と嫉妬混じりの眼差ししか向けることができないような人でも、蓋を開ければ自信を喪失していて、遂には自己否定に陥り、自ら命を絶ってしまうかもしれない。いくら周りからの評価があっても、結局は本人の感じ方次第である。本人が高望みする完璧主義者であれば、おそらくなにをやっても素直に「成功」と思えず、日々もがき苦しみ、しかも誰にも理解してもらえない暗闇のなかで悶々とするしかない。

それに対し、日本の小学校で自信をズタズタにされ、コンプレックスをしこたま抱えたぼくのような子供は、取るに足らないことでも、藁にもすがる思いでそれを自信に変えてゆくものである。テストで上位になった、体育の授業でバスケのシュートを2本決めた自分が色付けした作品のクラスの旗に選ばれた、これらのことは、どれもぼくを奮い立たせ、自分は周りより劣っているのではという疑念を雲消霧散させ、学校生活でさらにチャレンジすることを後押しするものであった。そういえば、以前書いたいじめっ子の言葉に反抗したのも、バイソンくんが背中を押してくれたことに加え、ぼくがようやく自信を持ち始めるようになったことが大きかったのだろう。

新たなチャレンジのチャンスはすぐにやってきた。夏が終わり、三年生が受験に専念するようになり、部活や各種委員活動の引退ラッシュが始まったからである。運動系の部活は4月の時点で募集しているが、なぜかあの中学校の各種委員活動は9月からの募集だった。だがぼくには丁度いい、もともと部活には興味がないが、図書館、放送室のような文化系の委員活動には入学当初からうずうずしていた。募集が始まったのなら入らない手はない、とりあえず、今学期は放送委員に応募してみよう。

放送委員の仕事は地味だ。給食の時間帯に放送室に行き、その日の担当委員が選んだCDを食事のBGMとして流す以外に、仕事らしい仕事はない。しかも担当日は給食を食べられず、自分で弁当を持ってくるしかない。しかし、そのことはぼくにはむしろ好都合であった。給食はおいしいが、なぜ全員同時に食べ始め、指定時間までに全員片付けなければならないのかは、最初の小学校からずっと理解に苦しんでいた。食事という至極個人的な娯楽は、あくまでマイペースに楽しみたい。

各種委員は性別不問で1クラス2名、不純な動機で応募し、「田ノ内さんも応募してくれないかな」と淡い期待を寄せていたが、そんな夢物語があろうはずもなく、ぼく以外の応募者はやや肌荒れのひどい井川くんだけだった。なんの競争もなくぼくたち2人に決まり、放課後のミーティングで機材に使い方を教わると、早速次の週の火曜日を担当することになった。淡々と説明聞くぼくに対し、井川くんは興奮を抑えきれない様子で、機材のボタンを一つ一つ入念に確認していた。

「井川、おまえこういうの好きなんだな、知らなかったよ。」教室に荷物を取りに戻る途中、ぼくはまださほど話したことのない井川くんと仲良くなっておこうと、口を開いた。
「音楽が好きなんだよ。おまえだってそうだろ?」
「いや、ぼくはただ、なにかやってみたいだけだから…」

ここで「マイペースで食事したいだけだから」と言っていたら、井川くんは怒ったのだろうか。少なくとも、この答えは彼を十分に満足させたようで、「いいじゃんそれ、かっこいい!」と喜び、そして、「やる気のあるところ悪いけど、来週のCD選びはオレに任せてくんない?もう決めているのがあるんだ。」と言った。

悪いどころか、大歓迎である。正直CD選びはしんどい、日本のポップスはよく知らないし、なにより新譜はぼくの小遣いには高すぎる。まさかブックオフで100円で投げ売りされている松田聖子を持ってくるわけにはいくまい。「ああ、楽しみにしてるよ!」とわざとらしく言い、心のなかでは「さて、来週火曜の弁当はなににしようか…」とレシピを考え始めていた。

その火曜日が来た。ぼくはいつもより1時間早起きし、薄味の卵チャーハンの上に魚香肉絲(細切り肉とたけのこの甘辛炒め)をかけた特製チャーハンを完成させた。それを丁寧に包んだ風呂敷を抱え、もはやこの日の主役は放送委員ではなく弁当の気持ちで放送室に入ると、井川くんはさきに到着していて。見たことのないCDジャケットをテーブルに置き、CDをセットしはじめていた。

「それ、なに?」
「ああ、ちょっと待ってな、今流すから。おまえも驚くぞ、この学校を驚かせてやる」

そう言った井川くんの目はキラキラしていた、「そういや、おまえ昼飯どうする」のぼくの野暮な質問をジェスチャーで制し、中指でマイクのスイッチをゆっくりと上げ、全校に向けて今日のプログラムを、興奮で震えた声で伝えた。

「全校の皆さん、こんにちは。火曜を担当する1−2です。早速ですが、本日の第1曲は、スパイス・ガールズのデビュー曲、『Wannabe』です。本場英国の超格好いい女子による最先端のポップス、心ゆくまでお楽しみください。」

「スパイス・ガールズ」も「Wannabe」も「本場英国」の意味もわからないぼくは、ただ弁当の箱を開けて、井川くんの指とともに流れ出す曲を呆然と聞いていた。あれは今までぼくが聞いたどの曲とも似ていなかった。しかしなにも知らない少年でさえ、これが「最先端」だということを一瞬で悟るのに十分な凄さを持った音楽だった。

「かっこいいだろ?」体を音楽のリズムに合わせて動かしながらぼくを見てくる井川くん。「かっこいい!おまえどこで知ったの?」
「なに、たまたまテレビで見かけただけさ。」

テレビならぼくだって音楽番組含めて毎日見ている、でもスパイス・ガールズなんて一度も出てきていない。「そう?どの番組?何チャンネル?」と聞くと、井川くんは憐れむような視線を投げかけてきた。

「おまえ、音楽を知りたけりゃ日本のテレビ見てちゃダメだよ。外国のを見ないと。」

井川くんの言葉の意味をぼくは理解できなかった。外国のテレビって、どうやってみるんだ?混乱しているうちに「Wannabe」は終わり、井川くんはテキパキとCDを入れ替え、2曲目をだいぶ落ち着いた声で紹介した。これも洋楽であった。

結局その日、彼は宣言通り、1時間近い給食をすべて自分で集めた洋楽CDで埋め尽くした。ぼくが聞いたことがあるのは1曲もなく、それなのに井川くんは原稿も見ずに、一人ひとりを流暢に紹介していた。「よし、今日は上出来、教室が楽しみだ」。そう語る彼、ぼくは驚きの連続で特製弁当をロクに食べることもままならず、半分以上残ったそれを教室に持ち帰って食べることにした。もうみんな食事を終えている、教室でもマイペースで食べれるだろうーー

大間違いだった。昼休みはほぼ全員が校庭に遊びに行くものだが、あの日は1/3くらい残っていた。そして、放送室から戻ったぼくたち2人の姿を見るや、全員が一斉に集まってきての大騒ぎになった。「なんださっきの曲!?」「CD今持ってる?貸して!」「もう一回聞かせて!」「来週はもう決めた?」「昨日の1−1のやつ最悪だったな、なんだよSMAPって」。ただ弁当を早く食べたかったぼくは、「全部井川に聞いて」と話を振ると、逃げるように自分の席に戻った。しかし、井川くんの周りの輪に入れなかった2、3名が、またぼくの方によってきて、今度は「なにその弁当?」「うまそう!」「ひと口、ひと口ちょうだい!」と音楽のことがどうでもよくなったように騒ぎはじめた。当然あげるはずもないぼく、引き下がらない彼ら、「今度家庭科のときに作ってやるから」で話が落着し、そのしょうもないやり取りの間、井川くんはずっと音楽談義をしていた。

これだけの活躍となれば、当然次の週も井川がCDを選んでくれるとぼくは思っていた。「来週はなににする?」と聞くと、彼は意外そうに「いや、来週はおまえが決めるんだろう?オレは聞くだけだよ」と言った。「絶対おまえが選んだほうがみんな喜ぶって」と謙遜するが、彼は譲らない。

「喜ぶかどうかじゃないよ、おまえだって、みんなに聞いてほしい曲あるだろう?オレは聞きたいぞ、おまえが選んだ曲」

彼の言葉にドキッとするぼく。そうか、人に聞かせたい曲を選べばいいのか。ぼくは頷き、自宅の本棚にしまい込んだブックオフで買った中古のCDを1枚引っ張り出した。絶対こんなのみんなには受けない、でも、少なくとも井川くんは聞きたいと言ってくれた。どうせ放送室にいればみんなの顔は見えない、ダメ元で流してみるか。

そして、次の週、みんなの期待を裏切って申し訳ないと心のなかで謝ってから、ぼくがスイッチを上げ、同じく震えた声で全校に向かって宣言した。

「今週はガラッと変わり、モーツァルトの交響曲第40番です。1ヶ月半で39、40、41の三大交響曲を書き上げた、本物の天才の作品、お楽しみください。」

その日の放送後は、もちろん先週のような盛況はなかった。いつものようにみんなが校庭に繰り出す教室、ぼくは机に伏せて仮眠を取った。まどろみのなかで、さっきの放送室で、井川くんが椅子にふんぞり返り、目を閉じて笑みを浮かべながら、モーツァルトを聞いていた様子を思い出し、一人満足し、自信が深まったのを感じていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?