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ぼくのなかの日本(第30回、名古屋の夏)

名古屋の夏

中1の夏休み、日本に来てから2年が過ぎたというのに、ぼくはなぜか、名古屋市に隣接する稲沢市の日本人の家に、1泊2日のホームステイをすることになった。おそらく名古屋市の日中友好協会のような団体が企画したものだろうが、それにしても、なぜ日本語ペラペラで日本の学校に通っているぼくが対象になったのか。そういえば、稲沢市の公民館で催された中国料理教室の講師に、ぼくの両親が呼ばれたことがある。或いはその場で、料理の腕と口だけはうまい父が、受講者を丸め込んで我が子を押し付けることに成功したのだろうか。そして、子供のいない貴重の2日間を使い、久しぶりに夫婦水入らずの時間を享受し、または、子供にだけは知られたくない、大人の男女の話し合いをしていたのだろうか。

真相は今なお謎のままだ。ぼくが知っているのは、自分が煉瓦色の車体の名鉄に乗り、最後尾の車両のモニターに「90km」と表示されているのを眺めながら、稲沢市に向かったことだ。ホストファミリーは駅まで迎えに来てくれ、品の良いおばさんが運転するワゴン車に乗り、「倉田」と表札が出ている一軒家に着いた。庭には柴犬2頭が小屋の前に繋がれ、ご主人と一緒に現れたぼくに全く警戒心を示さず、すぐに仰向けになって「お腹触って!」としてきた。犬に触れたのはいつ以来だろうか。日本での最初の年に暮らしたボロアパート周辺は、高級住宅街だけあって純血犬が多数おり、なかでも通学路で必ず通る家にシェットランドシープドッグがいたのを覚えている。可愛かったからではない、ぼくを見ると必ず吠えるからだ。そしてそれ以上によく覚えているのは、そのことを同級生に話したとき、「やっぱりさ、吠えられるのは中国人が犬肉食うからじゃない?」とからかわれたことだ。

犬肉はたしかに小学校低学年のときに一度だけ、おじさんが警察学校の食堂に出されていたのを食わせてくれたことがある。そのことを知ったら、目の前の2頭は同じように愛想を振りまいてくれるのだろうか。「こっちの愛想のいい方は女の子、無愛想なのは男の子、去勢したからね〜」。さらりと男子にはショッキングなことを伝える倉田おばさん。またあとで遊ぼうと思い、ぼくは倉田家に入っていった。

倉田家は夫婦二人に子供2人、名古屋で仕事をしベットタウンの一軒家に住む、これ以上ないくらい典型的な日本の家族だ。上の子供は大学入学目前のお姉さんで、中1の小汚いガキには何の興味もない。ぼくの相手をしてくれたのは、下の中3の男の子だ。彼の部屋にはマンガやゲーム機が置いてあり、「一緒に遊ぼうぜ」と誘ってくれた。ゲームがあるのなら犬に用はない、ぼくは彼の手ほどきを受け、人生ではじめて野球ゲームのパワプロをやり、彼の接待プレイもあって、延長10回の末、落合博満のソロホームランで勝利を収めた。

その日の夜は、ぼくを含めて5人でアトムボーイという回転寿司店に行った。なにを食べたのかは例によって覚えていないが、間違いなく、日本に来てはじめてお店で食べた寿司だ。夜は一家揃ってテレビの野球中継にかじりつく。松井秀喜が16号ホームランを放ち、アンチ巨人の旦那んさんが「チェ、また打ちやがった」と歯ぎしり。しかし午後のパワプロでぼくが巨人ファンだと知った息子のほうは、一緒に喜んでくれた。

次の日は、息子さんが持っていたマンガを一緒に読んだ。ぼくは以前にも数巻読んだことのある「スラムダンク」の続きを読み、倉田おばさんが「あたしはこれが大好き」と勧めてくれた「ジョジョの奇妙な冒険」には、「絵柄が好みじゃない」と見向きもしなかった。あまりに率直な外国人の意見にショックを受ける倉田おばさん、笑い転げる息子と旦那さん、つられて一緒に笑うぼく、こんなに楽しく笑ったのも、久しぶりだった。

1泊2日のホームステイはすぐに終わり、日が暮れるまでに自分の家に帰らなければならない。「スラムダンク」が手放せなくなり、出発ギリギリまで本棚の前に居座るぼくを見て、倉田おばさんは「来週もおいで、近いし」と誘い、遠慮を知らないぼくは「ほんと?来る!」と二つ返事。2週連続でホームステイというのも実におかしな話だが、家につく頃には倉田家からうちへの連絡が済んでいたようで、母が「来週もまた行くんだって?よっぽど気に入ったんだね!」と喜ぶ、そんなに息子に家にいてほしくないのかと少々ショックのぼく。でも、「スラムダンク」は楽しみだ。

約束通り、次の週も息子さんと一緒にマンガに向かった。桜木花道がミドルシュートの練習をする回まで読み、思わず「左手は添えるだけ」を真似してしまう。それを見て「なにやってんの?」と息子さん。「いや、本当にこれで入るの?」マンガを見せながら聞くぼく。「うーん、わかんないや。ほら、オレ、こんなんだから」。

しまった、いくら無遠慮でも、これくらいは気が回らないといけなかった。倉田さんの息子は、生まれつき片足が不自由だったのだ。だから休みにもかかわらず、外出せずにぼくの相手をしていられるのだ。それなのに、失礼なことを聞いてしまった。「あ、ごめん」と謝るもあとの言葉が続かない。しかし、向こうは「ううん」と微笑み、「それより、入るかどうか、試してみてよ」と言ってきた。

「試すって?バスケできる場所あるの?」
「おまえがやって、オレがフォームを指導する。そんで新学期の体育の授業ででも試してみたら?」

面白うそうなので、やってみることにした。ボールもないのに、立ち上がってシュート姿勢を取るぼく。「左手は添えるだけね、肘締めて。全身で跳ぶんだよ」と安西先生になりきって指導する息子さん。何回か練習していくうちにフォームも固まり、「よし、マンガに書いてあるとおりに見えてきた。これ以上飛んだらうちの畳が壊れる」と、お笑いにしか見えない練習が終わりを告げた。「こんなんで入るわけねーだろ!」、思わずタメ口で言うと、「でもよ、さっきのおまえの顔めっちゃ真剣で笑えたぞ」に、二人してまた大笑い、2週連続で楽しく笑ったともなると、数年ぶりかも知れない。

その次の週にまた倉田家に行った覚えはないので、名ばかりのホームステイに親が遠慮したか、夏休みが終わったかだろう。ぼくは久しぶりに学校に通い、体育の授業でバスケットボールを生まれて始めて触った。各々がボールを使って好き勝手にシュート打ったり、ドリブルしたりするなかで、ぼくは息子さんに指導されたフォームを思い出し、深呼吸してから、ゆっくりとジャンプし、スナップを効かせてシュートを打った。

「シュパッ」。マンガの通りに、ボールはゴールリングの真ん中を通り、歯切れのよい音とともにネットが裏返る。もう一本同じ感覚で打ったら、これも入ってしまった。それに気づいた同級生が「すごい!」「なんでスパスパ入んの?」と驚く。無理もない、本人が一番驚いてるのだから。「スラムダンク」は嘘をつかなかったのか、それとも息子さんは実は天才コーチなのか。ドリブルもスクエアパスもタップもできないけど、シュートが入っただけで十分だ。なんてたって、日本に来てはじめて、体育の授業でいい意味で目立ったんだから。得意満面のぼく、その後の本格的な練習では散々でも、たった2本のシュートで、根拠のない自信が湧き上がるのを感じた。

その日の夜、逸る気持ちを抑えて、夕食が終わるのを待ち、倉田さん家に電話を入れた。息子さんを呼び出し、「おい、本当に入ったぜ!」と伝える。電話の向こうはぼく以上に興奮し、「まじで?!スゲえなおまえ!」「おまえの教え方がいいんだよ!スラムダンクもスゲえよ!」「だな!」電話の両端で意味もなく騒ぐ男子二名。「うるさい!」と注意する母親。「そんじゃ、他に用はないから、もう切るね」と言うと、息子さんは「ああ、来年も家来いよ」のあとに一呼吸置き、声をトーンを一段と上げて言った。

「ありがとう!おまえのおかげで、いい夏を過ごすことができたよ!」

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