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ぼくのなかの日本(第28回、違いと反抗)

違いと反抗

以前にも書いたが、小学校高学年から転校生として入ってきて、しかも外国人となれば、どうしてもクラスに完全に溶け込むことは困難である。大人なら体面を取り繕って、話題にしないように気をつけるものだが、遠慮を知らない子供は素直にそのことを口にする。最初の小学校で「なんか違うよね」と言われたのは、まさにこのことを象徴している。厄介なことに、「なんか違う」という事実と、その事実を理由とした仲間外れや差別は、往々にして混同されてしまう。実際被害者側になっていたぼくも混同してしまっており、差別に反抗するのではなく、なんとか事実を隠そうとしていただけである。

隠すと言っても、転校生には無理な芸当である。だからぼくは中学校から隠しはじめようとした。もちろん、自己紹介すれば名前で一発でバレるが、同じ東アジアの人間で、日本語をネイティブと同じくらい話せるようになったため、名前以外で外国人と意識される要素は特にない。しかも、今回は転校ではなく、全員が新一年生として横一線のスタートだ、数ヶ月経てば、問題なく溶け込めるだろうと、ぼくは楽観的に思っていた。

その思惑が全くの見当違いであることに、ぼくは入学後1ヶ月で気づいた。自分が日本人ではないというアイデンティティの問題は、いくらでも心の奥に押し込めておくことが可能だが、それより遥かに目に見えやすい違いは、各教科の授業で次々と表面化していった。国語の授業で「右」と「左」の書き順が違うことにどうしても納得できなかったこと。英語の先生が「外国に行ったことのある人いる?」と雑談で聞いたとき、ぼくだけが手を挙げたこと。理科の授業で季節の植物を講義したとき、「土筆」とはなんぞやが最後までわからず、同級生に聞いて変な顔をされたこと。家庭科で「炒めものに使える野菜を言ってみて」と訊かれたとき、「きゅうり」と答えて先生が驚いたこと…文字通り、あげればきりがないのである。

それらの違いに、当然同級生も気づいた。新しく知り合った子のなかに、ぼくの言動を話のダシに使う人が出始めた。そこに、小学校の時点から仲がいいとは言えない子が合流し、「あいつはこんなことをしてたんだぜ」とヒソヒソ声で話すのが目に入るようになった。つまり、ぼくが見せてきた様々な違いによって、彼らは「この中国人と自分は違う」という共通項を手に入れ、そこから仲良くなっていったのである。「敵の敵は味方」とは流石に言いすぎだが、構造は同じである。

もちろん、いい気はしない。だが幸い仲のいい友人もいる。仲間外れにしてくる人間はこっちも無視して、自分も友人とだけつるんでいればいい。そう思ってはいるが、やはり自分のうわさをしている人間が目に入るのは不愉快だ、しかも入学から2、3ヶ月が過ぎ、夏服に変えた頃に、彼らはもはやヒソヒソ話ではなく、これみよがしに大声で話し、ぼくの前でわざと笑うようになった。ほかの同級生はといえば、彼らの下品な声に眉をひそめる人がいても、言葉や行動で態度を表明する人は、一人もいなかった。

これでは最初の小学校と同じである。また同じことの繰り返しかと、ぼくは憂鬱になり始めていた。そんな気分で再び人を避けるようになり、トイレに行くのもできるだけ誰もいない時間帯を選んでいた。しかし、そのことが逆に目立ってしまったのか、ある日、小用を足している最中に下品なグループの一人が用もないのにトイレに入ってきて、卑猥な言葉を浴びせてきたのである。

さすがに我慢ならなかった。声を上げようとした瞬間、ぼくより一瞬早く、トイレの個室から雄叫びのような罵声が上がったのである。

「うるせー!誰だ!落ち着いてう○こさせろ!ボケが!!」

あまりの剣幕にぼくの小用も一瞬で止まり、嫌がらせの犯人は一目散に逃げた。そして個室からは水を流す音、ベルトのガチャガチャ音が順次聞こえてきて、ムスッとした顔の男子が出てきた。

「山田…?」

山田くんは、クラスこそ違うが、中学生離れした体格、いつもゲラゲラしているように見える表情、さらに双子という点で、全学年で知らない人がいないほどの有名人だった。しかし、目の前にいるのは双子のどっちだろうか。まあいい、名字は同じだ。

「お?おまえ…えっと、ごめん、名前思い出せん。くそ、さっきの誰だよ。」

ぼくは自己紹介し、山田くんは「ああ、中国人の」と、口を横いっぱいに広げ、白い歯を見せて笑った。体格に加え、黒い肌が彼を精悍に見せ、兄弟共々「バイソン」の異名をとることもぼくは知っていたが、今思えば、この時の表情は野獣というより、現代美術家の岳敏君が描く大笑いする人間のようである(参考画像https://matome.naver.jp/odai/2130517260605084601)。「あれはXXだったよ」と言うと、山田くんは「許せん」と吐き捨てるように言い、ぼくに向き直って言った。

「おまえはどうなんだよ、あんなこと言われて、なんで何も言わないんだよ。」
「いや、言おうとしたけど、山田のほうが一瞬早くて…それに、もう慣れてるし。」

慣れていたのはたしかだ。こっちには小5一年間の年季の入った我慢の経歴がある。2ヶ月くらいどうってことない、あの頃も嫌な気持ちにはなったが、辛いというほどではなかった。しかし、それを聞いた山田くんは笑顔を収め、両手でぼくの肩を握り、トイレの外にも聞こえたであろう大声で言った。

「いや、慣れたらいかん!慣れたらいかんぞ!いやだったら言わんとダメだ!」

バイソンと呼ばれるだけあって、山田くんに握られた双肩は痛かった。しかし、彼のそれ以上に真剣な表情に、ぼくはなにも言い出せず、ただうなずくことしかできなかった。山田くんはそれを見て手を離し、「やべ、手も洗ってねえのに触っちまった、すまん」とどうでもいいことを謝罪し、「慣れたらいかんぞ」と再度念を押し、トイレから出ていった。

獅子吼をいただいたぼくだが、いやなことをその場で嫌だと言えるくらいの性格なら、ここまで苦労していない。その後も嫌がらせが起きる度に、ぼくは彼らが興味を失うことに一縷の望みをかけて、無視して我慢するだけだった。しかし、下品な言葉は尽きないものである。夏休みが終わったあとも、彼らはぼくへの嫌がらせを続け、いつの間にかあからさまに容姿を嘲笑されるようになった。しかも時と場所を選ばなくなり、先生さえいなければ、いつでもターゲットにされる可能性があった。

そんな状況にはじめて反抗を試みたのは、秋の合唱コンクールに向けたクラスの自主練の場であった。いつものように理不尽に飛んでくる嘲笑、その声に困り顔の指揮者の女子、そして全員いるのに、誰も助けてくれない同級生。ぼくはとうとう我慢できなくなり、しかしそれでも努めて冷静に、下品グループのリーダーに向かって言った。

「おまえ、それしか言えんのか?語彙が貧弱すぎるんだよ。アホか。」

実にささやかな反抗だ。しかし、効果はてきめんだった。リーダーくんは「な、何だこいつ!べ、別におめーのこと言ってねーし!」と呂律が回らなくなるほど狼狽し、彼のとりまきたちは「お?」「え?」とあっけにとられていた。指揮者の女子ーーたしか本橋さんだったーーはこのチャンスを逃さずに、「もう喧嘩はやめて、早く練習!」と場を取り仕切りはじめ、ぼくはたった一言で、しばしの平静を手に入れたのだ。

しかも、効果はその後もずっと続いた。犬猿の仲の男子とのいざこざがなくなることはなかったが、集団での嫌がらせはあれっきりなくなった。山田くんの言うとおりだ、彼にお礼を言わないとーーしかし、どっちだ?

結局、兄弟のどっちがぼくにアドバイスしたのかがわからず、お礼を言うことができぬまま、現在に至る。そういえば、書いているうちに思い出したのだが、山田くんの顔の黒さは、おそらく日焼けではない。それにあの体格、嫌がらせに慣れると言ったぼくへの激しい反応、それらを合わせて考えれば、もしかしたら山田くんの両親のどちらかが、外国人なのかもしれない。そうだとすれば、彼は「バイソン」というあだ名を、どんな思いで聞いていたのだろうか。

山田くん、あのとき、きみともっと話していればよかった。

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