幕末最強代官! 江川太郎左衛門英龍
代官と言えば、≒「悪徳」!?がつきまといますが、幕末の伊豆には、そこらの藩主よりも影響力のある善良かつ超優れ者代官がおりました。その名は、江川太郎左衛門こと英龍。日本の近代化、世界遺産にも貢献しましたが、世界遺産を知るよりも、彼の存在と生涯を知る方が価値があるのではと思うくらいです。では、中伊豆の日帰り旅行へ出発!
いざ「中伊豆」へ
本日も三島駅からスタート。JRの駅舎は、富士山をモチーフにしたもの。以前の駅舎も同じく富士山型。
それにしても、外国人観光客の多いこと。もう富士山に登る季節でもなく、新幹線の駅があるとはいえ、ここからどこに足を運ぶのか、聞いてみたいくらいです。
西武鉄道からの車輌を譲り受けております。車内はロングシート。市街地を抜けて、田園風景を走ります。
頼朝ゆかりの地、蛭ヶ島へ
今日は、昼過ぎからの散策、レンタサイクルにはちょうど良いところにいくつか回りたいスポットがあるため、迷わず「HELLO CYCLING」。アプリで見れば、近隣の至る所に自転車ステーションが複数あり、便利そう。
トラクターがそこかしこに走り、稲刈りの季節。中伊豆の田園地帯を往きます。時折見える、ビニールハウスは、イチゴの栽培。シーズンは12月中旬からゴールデンウイークまで、まだ苗を植えたばかりでしょうか…。
三嶋大社の宮司の筆により巨大な案内碑が現れ、「源頼朝公 配流の地 蛭ヶ小島」とあります。平治の乱の後、頼朝、辛うじて命だけは繋がれ、ここに島流しになりました。20年近くをこの地で過ごすのでした。
海でもないのに「小島」とは如何に。近くには狩野川台風(1958)で有名な狩野川が流れています。この川、今では堤防もしっかりしていて、放水路もあり、氾濫の可能性は極めて低いですが、山々に囲まれた中伊豆の雨を一手に集めて流れているため、かつては間違いなく暴れ川。氾濫原も広く、まともに人が住めない地域だったと推測します。自然堤防のような部分が削られたり、三日月湖が出来たりしているなかで、「島」のようなエリアが出来、名付けられたのはほぼ間違いでしょう。
頼朝が住んでいた場所をピンポイントで特定できてないのですが、今はココが「蛭ヶ島公園」として整備られています。公園の端には、18世紀以前に建てられた民家がそのまま小さな民俗資料館として保存されています。
おそらく、頼朝が住んでいた場所はここまで立派ではなかったのだろうと想像もしながら見学。流された頼朝を乳母たちが彼を支え、この地で、北条政子と出会うのでした。頼朝三十一歳、政子二十一歳、当時の年齢としては晩婚であると同時に、お家の事情がつきまとう政治的な結婚ではなかったのも確かでしょう。
ここが、鎌倉幕府胎動の地!
伊豆の中心だった「江川邸」
さらに自転車で数分のところに、小高い丘を背にした江川太郎左衛門のお屋敷、江川邸が見えてきました。随分広い敷地で、威厳のある雰囲気漂う。
木造の平屋に50坪の土間、二階部分がない、こんな造りは初めてみました。熱心な解説員の方がおりまして、聞けば、主屋は1600年頃に建てられ、増築・改築を繰り返し、古い部材は数百年以上経っているとのこと。日蓮もこの家に立ち寄り、火事がおこならないように祈願したとかでその棟札も残っている。
ここで、ムムッ?鎌倉時代から家があったの?というところで、江川家さかのぼれば、平安時代、源氏と平家の争いから逃れる形でやって来たのでした。この韮山の地にたどり着いたのは、清和源氏の流れをくむ初代、源満仲の次男、頼親から。1000年以上も続く家なのでした。
これを考えると、源頼朝がこのあたりに流されたのも、これらの縁があってのことでしょう。
そして、江川太郎左衛門とは、ここの当主はそのように呼ばれるのですが、その江川家の中で最も有名なのが、36代目当主の英龍。
肖像画を見るとこんな風貌、特徴的な大きな目と日本人離れした鼻!
身長も大きい予感がしますが、六尺あったそうで、180cm強、当時の日本人だとおそらく巨人のレベル。イギリスの軍艦が下田に来た時には、交渉役に抜擢されました。彼の見識と経験だけでなく、この体格と風貌も選ばれた要因だったのではないか。普段は質素倹約の生活を送るも、この時ばかりは、下のような豪華な袴を着て、交渉に臨んだとか。
交渉センスもあり、イギリス人も、これは侮れない国だと感じたことでしょう。
そして、江川家は現当主がおりまして、東京に住んでおられるとのこと。ちょっとした地元の新聞の切り抜きが置いてあったのですが、36代が英龍、江川洋さまは、42代目の当主。英龍の息子や孫の写真もありましたが、あまり似てないのですが、現当主はもう、そっくりじゃないですか!びっくり!
血は争えないですね。
英龍の功績は数知れず…
この英龍の功績は数知れず、最も有名なのは、後ほど紹介する「韮山反射炉」を竣工させ、幕末の江戸の国防のために尽力を尽くしたこと。お台場の建設も行いました。
代官としては、伊豆、駿河、相模、武蔵、甲斐の5カ国を治め、二宮尊徳とも交流があり、全国的な飢饉も乗り越え、破綻しそうな家の再建などにも一肌脱いだりして、「世直し江川大明神」と呼ばれていたとか。
余談ですが、廃藩置県の初期には「韮山県」があったそうで、そのまま存続していたら、県庁所在地は韮山だったという…。
そして、展示されている古文書から、「敬老祝い金」を当時から出していたという記録もありました。これも驚き。しかも年齢は九十代後半、解説員の方もサバ読んでたかも!?とは話してましたが、ずらりと並ぶ名前はほとんど女性。やはり昔から長生きは女性のようです。
ヘダ号の造船に携わったのもこの英龍でした。
さらには、「韮山塾」という私塾も開設し、蘭学の中の兵法、高島流砲術を教えることもしました。最初の門下生は、誰かというと「佐久間象山」。
吉田松陰が慕っていた人物の一人で、明治維新の影のキーパーソンでもあります。
この塾では、兵法の習得だけでなく、山の中を駆け巡り実際の訓練も怠らなかったようです。何日も渡る行軍訓練で、食べ物をどうするかということで、英龍は、パンの存在を知るようになります。そして、この地で、明治に入る前に既にパンが焼かれて、食されていたということで、英龍は「日本のパンの祖」という位置づけだそうです。
ということで、代官の域を超えて、救国の時に、才能爆発させたのが、江川英龍だったのでした。
この私塾には全国から塾生が来ていたとのことで、
今は「韮山高校」という進学校が近くにありますが、この高校の前身は、この「韮山塾」だそうで、高校に入った1年生は皆さんこの江川邸を見学に来るそうです。
正直、この田舎になんでこんな進学校があるんだろうと昔から疑問でしたが、ようやく謎が解けました。静岡東部には「沼津東校」というこれまた旧制沼津中学の高校があり、井上靖も出している学校ですが、その学校よりも歴史があり、静岡県内で一番古いのがこの韮高(にらこう)だそうで、今年で150周年! 恐れ入りましたmm
まだまだ、紹介したい江川家ですが、時間切れ、紙面切れで、次のスポットへ。里山の道をひた走ります。
世界遺産「韮山反射炉」
江川邸の衝撃冷めやらず、反射炉はもう行かないでも良いかというやや放心状態ですが、せっかくなので…。
初めて来たのは親父と一緒に中学の時でした。殺風景なところに反射炉がポツンと立っていた記憶はあり、サッと見て帰ってきた程度。
その時と比べたら、観光客が多いこと。外国人の方もいますが、日本の歴史に相当興味なければ、つまらないのではないかと余計な心配までしたくなります。
館内にはちょっとしたシアターで解説を聞き、展示品もこちらで造られたであろう品々が並んでおります。
さて、日本の反射炉の歴史は、1850年に初めて佐賀藩で完成しましたが、この建造にも江川家は協力しています。佐賀藩なので、官営ではありません。そして、1853年、アメリカ東インド艦隊のペリーが浦賀沖にやって来て、大騒ぎになり、「来年また来る」といったペリーの来航に備えて、江川英龍に白羽の矢が立ち、台場の建設と大砲・砲弾を作るための反射炉の建設を命じられるのでありました。
当初は、下田の北、河津に反射炉を造っていましたが、アメリカの水兵が、たまたま?建設現場に侵入して、これはまずいということになり、急きょ、中伊豆のここ韮山の地に反射炉を造り直すことになりました。
韮山反射炉自体の稼働はそれほど長くは続かなかったようですが、この地で造られた大砲や砲弾は日清・日露戦争でも使われました。
しかし、江川英龍は、この反射炉の1基が完成した後に亡くなってしまいます。江戸で息を引き取りましたが、当時の状況は過酷で、心労極まりなかったのではないか。反射炉の建造、ヘダ号の建造とロシア人帰国案件、お台場の工事、安政の大地震の復興、韮山塾の運営、農兵隊(国防のための自衛組織)の拡張…。
結局、反射炉の4基の完成とヘダ号の完成を見ないまま亡くなりました。当時の東アジアの状況と日本の国防の深刻さを考えると、この幕末・明治維新の対応は、ぎこちなさはあるもの、江川英龍ほか、当時の日本人の決断と行動は賞賛に値すると言わざるを得ないでしょう。
当時から現存する反射炉としては唯一のため、世界遺産登録されました。
当時を偲びつつ、今の日本と世界の現実を見ながら、祈らずにはいられません。
まさかの伊豆長岡温泉共同浴場
長岡駅から、自転車で、どこも十数分圏内なので、陽は西に傾いていますが、ここまで来たら、長岡温泉に立ち寄るしかなでしょう。ただ、豪華な露天風呂は要らないので、いいお湯に浸かりたいと、改めて観光案内所でもらったお風呂マップを覗けば、外湯が一つあるではないですか。
引き返しまして、ようやく発見。長岡のメインの温泉街も、初めて見ましたが、イイ感じに鄙びておりました。
PHは9.1で、アルカリ性単純泉、源泉は60度前後のため、若干加水とのことですが、浴槽の温度差はあるはずが、どちらもかなりガツンとくる高温。久しぶりの高温泉で、癒されました。
加熱も循環もさせておらず、ほぼかけ流し。伊豆長岡にこんなお湯があるとは全く知りませんでした。
よくよく考えれば、1200年以上も温泉の歴史があるエリアなので、外湯がないわけがない。番台のおじさんに聞けば、過去はいくつかあったけど、最近もひとつ無くなったとのこと。今は、「ココと古奈温泉に一つ、川の向こうにもひとつあるよ」ということで、3つもあるとか!
ということで、他二つも含めて、後日、長岡温泉外湯はご紹介します!
長岡駅に到着。今日はこちらのハローサイクルが大活躍。
ということで、秋の夕暮れ。半日サイクル&ウォークとしては、歴史と癒しのひと時となりました。(2023.10.21)