【公演レビュー】2021年8月20日/坂入健司郎指揮、名古屋フィルハーモニー交響楽団

「異色の俊英」から「楽壇の希望」へ歩む快演

2021年6月に本稿で取り上げた指揮者・坂入健司郎が8月18日(愛知県芸術劇場コンサートホール)と8月20日(東京オペラシティコンサートホール〔オーケストラキャラバン東京参加公演〕)の2公演で名古屋フィルハーモニー交響楽団に初登場。筆者は8月20日の公演を聴いた。

~プログラム~

ボロディン:交響詩「中央アジアの草原にて」

グラズノフ:サクソフォン協奏曲(堀江裕介〔サクソフォン〕)

-休憩20分-

チャイコフスキー:交響曲第4番

ボロディンの冒頭、清澄に研磨された弦の後に管が芯のある舞いで乗り、音楽の位相が鮮やかに浮かんだ。描写というより印象の音楽ゆえ、ベタに色付けするより少し距離を取った絵の具の塗り方が似合うが、そこのさじ加減がうまい。次第に楽器の数が増えて盛り上がってもゴテゴテせず、弦の鋭敏な動きを基盤に各パートが透かし彫りにされ、儚く消える。ラストの爽やかでほんのり寂しい余韻の繊細な質感はある意味作品を超えていた。

グラズノフは堀江裕介の気迫にあふれながら、品格漂う琥珀色のソロが見事。この種の楽器で熱演すると西洋音楽に合わない「こぶし」の入ってしまうプレーヤーがしばしばいるが、堀江は全体をしなやかにまとめて細部の輪郭が明瞭。バックもソロの音楽性を尊重した典雅に弾む瑞々しいタッチ。

チャイコフスキーはスタートで名演を確信できた。俗に言う「運命の動機」がクリアなリズムのもと音楽に沿った凹凸で奏でられたから。日本のオーケストラの殆どの演奏はただパパーと音を刻んでいるだけか、無節操な叫喚を垂れ流すかのいずれかだが、坂入と名古屋フィルは作品全体を貫く論理の核心として再現した。その後も各パートの役割分担が徹底され、響きの増減、フレーズの収縮が緻密に処理される。この交響曲が内包する劇性、陰影、屈折、旋律美がこれほど可視化した演奏を生で聴けたのは本当に久々。弦の量感、解像度が盤石なので鳴り物打ち物が吹かし込んでもバランスが安定し、金管の質感は刺々しくなく光沢やまろやかさのあるサウンド。第1楽章のコーダに至るところなどの難所もオーケストラのアンサンブルはダイナミズムと精度を両立していた。

第2楽章はオーボエのニヒルなソロが巧みでクールに答える弦との織り成しが聴き手の心を抉る。この作品は両端楽章が多面的で起伏に富んだ音楽のため、中間楽章が間奏曲風にやられやすいが、坂入と名古屋フィルは第2楽章の冷たい痛々しさ、第3楽章の密やかな呟きと時折除く苦いユーモアを充実のハーモニーであぶり出した。

フィナーレは第1楽章同様、明晰かつ強靭で密度の濃い内容。押すところはディテールのメリハリに留意しつつ雄渾に響かせる一方、静かなところはゾッと寂しい翳が覗く。コーダの手前の減衰する箇所の意味深さに驚いた。ラストはグイグイ追い込みながらも音楽の骨格を損じずに光彩陸離の大団円。

客席は大拍手に包まれ、アンコールとしてチャイコフスキー:白鳥の湖からスペインの踊りがシャープかつ艶やかに。最後は指揮者のみが呼び出される「一般参賀」まであり、温かい雰囲気で幕を閉じた。

坂入健司郎は以前より表現上のムラが消え、やりたいことを大きな流れの中で形にする管理力や統御術がどんどん進化している。張りぼての音楽ではなく本当の意味で作品の求めるサウンドカラー、響きの構築を求める指揮者なので良いオーケストラを振る経験を積めば、長く輝き続ける存在になる。

また名古屋フィルの健闘も特筆もので小泉和裕、川瀬賢太郎をはじめとする指揮者陣の充実、フルートの満丸彬人など新しいプレーヤーの加入により、レヴェルと魅力が確実に上がっていると感じた。あとは指揮者の質にかかわらず、オーケストラが自身の音楽を表現できる領域まで全体を底上げすることが重要だろう。

日本の指揮者とオーケストラが名曲で真に迫る演奏を聴かせた本公演は閉塞感の否めない楽壇に希望の光を射し込む素晴らしい一夜だった。

※文中敬称略※

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