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牛のサマーディ
「三昧」という言葉があります。
カニ三昧
放蕩三昧
ライブ三昧…
あるいは勉強三昧、映画三昧などにも使うかな?
状況を満喫する、というイメージ。
三昧は、サマーディという仏教用語です。
精神を集中し、雑念を捨て去ること。
その状態を三昧境と言ったりもするようです。
例えば私は絵に集中していると、時間が止まっているような…何とも不思議な感覚になります。
暑さもない。寒さもない。痛みもない。
書き終わってふっと我に返ると、喉が渇いていたり足がしびれていたりする自分に気づきます。
以前、ハンバーグやさんのパートをしていたのですが、忙しい日のお昼には三時間ほどのうちに100オーダー以上入ることがあります。
オーダー票がズラーッとキッチンに並びます。
そうすると、考えたり悩む隙間もなく、ブワー!!!!っとひたすら肉を焼くことになります。
このときも、何か別の世界にスイッチが入ります。
お客さんが引けて、ちょっとキッチンが落ち着くと、汗だくでフラフラの自分に気づきます。
異様な集中力を使うんですが、これが…最高に気持ちいい。
冷静になおかつできるだけ素早く手を動かしているとき、あるいは絵の構図や色合いを夢中で分析してアウトプットしているとき、妄想や不安にかられる脳の回路が締め出されるのかな。
このことについてタイ仏教僧のプラユキ師に聞いてみたところ、いわゆる「三昧」の状態でしょう、と教えていただきました。
実は私、夢中になりすぎるクセがあり、それをなおしたいなあ…と思っていました。爽快感があるので、ハマってしまうんですね。
プラユキ師は一言「大丈夫大丈夫!すぐ戻ってこれるようになるし、三昧になってもまた戻ってくればいいんだから」。
プラユキ師との面談の前に、師と魚川祐司氏の共著『悟らなくたって、いいじゃないか』を読んだのですが、面白いことが書いてありました。
心的実践と作業的実践についてのエピソードから。
タイにて、ある修行僧が小屋の雨漏りをそのままにして瞑想に耽っていた。
この僧の師がたずねます。
「おまえどうしてそれを直さないんだ?」
弟子「いや、僕はそんなことには囚われていないんで」
師匠「おまえ、それは牛のサマーディだよ」
「牛はね、たとえ雨漏りがしていようと、全く動じることなしに、そこで生き続けるわけだけど、人間であれば雨漏りは直すことができるわけです。そういう人間の任務としてやるべきことをしないままで、ただ牛のように瞑想の集中の境地に偏ってしまっている」(p47)
これを読んで、私はハッとしました。
作業的実践…人間としてすべきこと…
これらをせずに生きてると言えるだろうか、と気づきました。
実は家事が苦手でした。
家政婦みたいな感じもイヤだったし、片づけようとして「やらなくていいから」と母親に言われた過去の記憶など、マイナス思考がワサワサでてくるジャンルが家事だったのです。
でも、苦手意識も原始脳からくる妄想のひとつ。
そういう考え方にきりかえたところ、家事もさほど苦ではなくなってきました。
いわゆるサマーディから楽に「戻ってこれる」ようになったんですね。
家事についてはもう今や、やって当然の作業。
何も考えずサクサク掃除、サクサク炊事をこなせるようになりました。
脳に新しい回路ができたのかもしれませんね(o´∀`)b
これだけでも毎日のことですから、ずいぶん心が軽くなり、さらには自分に自信がつきました。
瞑想は、サマタ(止)とヴィパッサナー(観)があるそうです。
サマタの瞑想、サマーディもいいんですが、気づきの瞑想と言われるヴィパッサナーとセットになってはじめてブッダの示した抜苦与楽の恩恵を受けられるのだなあと腑に落ちた、今日このごろなのでした。
そこでこちらは過去の絵です。
https://www.instagram.com/p/BOY82bfA1F5/
五分時間があったら…そうじする、お湯を沸かす。
そうすることで、自分のためにもなるし、なんとまわりのためにもなっちゃう。
作業的実践のなかで、これからも瞑想を楽しみたいですね。
☆まるっ!☆
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