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環境はわたしを変える?

どうも。いつだって真面目な蒼井です。

先日、旧友に会いました。

はじめての親友、ミツキちゃんです。

ミツキちゃんとは中学までは一緒の学校でした。でも、ちゃんと関りがあったのは小5まで。

小5の夏、私がミニバスケットボールを始めてから私の話すことはバスケの話題ばかり。ミツキちゃんとの距離はだんだん開いていきました。

ミツキちゃんと私はいつでも一緒でそれゆえ比べられることも少なくありませんでした。私たちは勉強がよくできてリーダーシップがあって、学級委員もいつも私たち二人が選ばれていました。でも私はミツキちゃんよりも少し劣っていていつかボロが出るのを恐れていました。ミツキが陽なら私は陰。それが決定的になったのが、小3の時、私が人生ではじめて忘れ物をした時です。ミツキちゃんも私も忘れ物をするということはありえないことでした。「授業参観の出席の紙を忘れた人は立ちなさい。」焦りました。先に立ったのは忘れ物常習犯の男子たち。発想が道徳的に貧相ですが、失礼承知で例えるならば、多くの通行人の横ではじめてさらし者にされた、まだ小綺麗な新規ホームレスの状態です。おわった。私の何かが吹っ切れて私は勢いよく立ち上がりました。周りのみんなの驚いた表情。先生は初めから分かっていたかのようなどこか不満げな顔。そして、真後ろに座るミツキちゃんは私の手を引っ張って「え?忘れ物した人が立つんだよ?」その顔のなんと純粋だったこと。「ああ、だってわたし忘れたから。」目も見ずにそう言って、休み時間になったとたん、トイレで私はわんわん泣きました。それ以降、私は真逆の世界へ飛び込みました。明るく元気な人をなるべく避け、静かで天才肌のとんがった人たちや自信がなくひとりでいる子たちのもとへ進んで話しかけました。需要がある。ここが本来の居場所だと思ったからです。けれど、私はそこで出来た友達がうっとおしいなと感じるようになりました。私にはもっと可能性がある。ちゃんと授業聞きたい。そんな独りよがりな自分の感情を小学生ながら憎んでいましたが、正しい道だと、どこかで確信していました。

そんな時に私が所属した新たなコミュニティがバスケットボールチームだったのです。チームは大好きでした。運動神経が良いことが幸いしていろんな人に認められ、楽しくなってどんどんバスケにのめり込んでいきました。暗くじっとしているよりもこっちの方がよっぽど健全だと感じました。常に潜在的に求めていたのは、ミツキちゃんに対する劣等感からの解放だったのです。。それでもあの時ミツキちゃんを突き放したという罪悪感がずっと消えず、私からミツキちゃんをご飯に誘いました。

当時を思い出して会うのが怖かったのですが、いざ会ったらまあ楽しそうに会話できました。時々ちくりと来る返しをされましたが、今の私は笑ってやり過ごすことができます。そしてこのちくりはかつて経験したような気がしました。2人の思い出もミツキちゃんはほぼ覚えてませんでした。仕返しなのか?と感じましたが、それは違うと思います。またねとお別れした後、見送ろうかなと思いすぐ振り返るとミツキちゃんはすでに楽しそうに電話していました。そこに温度の差を感じました。お別れの余韻などないのか。いや私が過敏すぎただけなのかもしれませんが。どちらにしろ、ミツキちゃんは、今も昔も呼吸が合うわけではなかった。元々そういう特殊な性格で私が小学校で感じた違和感は間違っていなかった。わたしは過去の自分を否定していましたが、そんなことしなくていい。どんな場所へ行こうと、年月を経ようと私の芯だけは変化しない。そんな発見が出来た、旧友との再会でした。

このように環境によって私の考え方は変化しますが、そのもっと奥にある私の芯は永久機関です。高校では、人と全部一緒がイヤだ。私は一匹オオカミでありたい。これは乗り越えました。今はどうなんでしょう。穴があいて丸くなった分、乾いたスポンジを維持するために吸収したら絞ってを繰り返しているように感じられます。表面上はね☆


よーし、新しいバイトはじめよっと!

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