父の日がない
ない、と言ったら嘘になるだろうか。
わたしの家に、父の日が無いだけだから。
わたしの父は、10年ほど前に他界した。わたしが小学一年生だったときだ。交通事故だった。バイクと車、勝ち目なんてない。ヘルメットのおかげか、それはもうありえないくらい綺麗な死に顔で、耳たぶがほんの少し、切れていただけだったはずだ。もう、ほとんど忘れてしまったけれど。
(けっこうリアルな話、家族が亡くなったときは、不謹慎とか気にせずに亡くなった顔を写真に撮っといた方がいいよ。数年後、ちゃんと見たくなる時が来るから。その教訓もあって、去年父方のおじいちゃんが亡くなったときは、父の姉が一眼レフを持ってきて、亡くなった顔をしっかり撮ってて、ちょっと面白かった。)
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家族の中で、わたしがいちばん早く泣かなくなった。当時、専業主婦だった母と、幼稚園にも通っていなかった弟に比べ、わたしは小学校があったからかもしれない。
田舎の噂なんてすぐに広まる。
父が亡くなったのが月曜日、次の月曜日には登校し始め、その一週間のうちに噂は完全に広まりきっていた。
泣くわけにはいかなかった。学校を休み続けるわけにも。
"早く立ち直らないと"
誰に頼まれたわけでもないのに、"いつものわたし"に軌道修正することだけが、わたしを地面の上に留まらせる、唯一の重石だった。
…元気だよ!だからみんな、そんな目で見ないで?心配しないで、お母さんも、弟も、おじいちゃんもおばあちゃんもいるの。ほら、わたしは、かわいそうな子なんかじゃ、ないでしょう?…
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今はもう、父のことを口に出しても、誰も悲しい顔をしない。引っ越しちゃったクラスメイトを思い出すような気軽さで、家族もわたしも父のことを話す。
思い出は、風化していく。年を重ねるごとに美しい部分だけが残って、箱の中に仕舞い込んでしまった記憶も、蓋を開けて眺められるようになる。
驚かれるだろうし、薄情だと思われるだろう。でも、意外とこんなものなのだ。あなたも、喪ってみるとわかる。いや、できれば、こんな経験無い方がいいのだけれど。
だから別に、父の日だって、どうってことなかったのである。
父がいない父の日は、もう、何度も経験した。毎年来るのだから、当たり前だ。そんなことでいちいち感傷的になっていられるほど、父の死後も平らな人生ではなかった。
わたしは、父のいないことに慣れていたんだと思ってた。時間が、悲しみを持っていったと。
違った。
"家族の中にいる父親"というものに、日常生活で出会っていなかっただけだった。
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わたしは今日、ショッピングモールのフードコートで、ひとり勉強をしていた。本当は市の図書館に行きたかったのだけれど、感染症対策として席数がものすごく限られており、わたしが行く頃にはもう満席になっていた。
今日は、とても多くの"家族"連れがフードコートを利用していた。
ときどきそこは利用しているので、お客さんの入りは何となくパターンを読んでいたが、今日が日曜日だったことを考慮しても、あまりに多くのひとがいた。
父のいない劣等感が、わたしに父の日を意識させていただけだかもしれないが、いつもなら学生同士や老夫婦、幼い子連れのお母さん達、ひとりのお客さんが多い印象を受ける場所だが、今日はいちだんと「子どももそこそこ大きい親子」が目立っていた気がする。
わたしの座っていた二人席は、両隣が四人席になっていて、大抵は家族が利用していった。わたしが居座っていた数時間の間に、数組が入れ替わっていった気がする。
勉強しながら視界の端に入ってくるたびに、世の中の父親はこんな感じなんだ…と、思った。それと同時にわたしは、父親というものが、わたしの家に「ない」ことに気づいてしまった。
だって、あんな風に母と肩を並べて歩くひとなんて、知らない。
子どものことを呼び捨てするのも、
母と子どもが全員聞き手に回って成り立つ会話も。
それは、みんなにはあるものをもっていない、なんとも言えない不安と虚無感。
もしかして彼らは、いつもは家で過ごす日曜日に、父の日だからと重い腰を上げてきたのかもしれない。
派手なことができないから、せめて外食くらいは、と家族揃った"特別なごはん"を味わっているのかもしれない。
わたしにも寄越せ、と、思った。
忘れたのではない、もともとそんなに知らなかったのだ、わたしは。お父さんがいる世界を。それがたまらなく残念で、羨ましくて……
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……家に帰って、わたしは、亡くなった父のためではなく、味わえるはずだった父がいるぶんの幸福を、知らずに生きていく自分のために、泣いた。
そんな自分があまりにがめつくて、卑しくて、情けなくて、また涙がでた。
気晴らしに開いた、だいすきなSNSも、父の日をお祝いした報告ばかりで、舌打ちして閉じてしまった。ごめんなさい、祝うことは素晴らしいこと。今のわたしが、ひねくれていただけだよ。
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はっきり言おう。父親がいなくても、生きていける。それは、父親以外も同様だし、もちろんわたしがいなくても、家族は生きていける。立ち直ることも、存外早くできてしまうほどに、わたしたちは前を向いて生きている。
だけど、悲しみは、神出鬼没だ。いったんどこかへと消えてしまっても、何年もあとになって、少しのきっかけで新しい形になって現れる。わたしみたいに、みんながもっている素敵なものを、自分だけがもっていなくて泣くことも、あるだろう。
そんな自分を、どうか愛してやってほしい。
自分のことを愛してくれたひとは、もういない。そのひとのために、自分は泣いている。自分はまだそのひとを愛しているのに、愛を返してくれることはない。だからもう、自分が愛すしか、無いじゃないか…
自分のまわりに、今いるひと達からの愛では満足できず、いなくなってしまったひとからの愛を、求めてしまうあなたへ。
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