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ハイデガー「存在と時間3」(1927年)

「存在と時間」をようやく3巻まで読み終えた。
哲学に関してはちびちび読んではいるけれど、ズブの素人なので、というエクスキューズをしないと読書感想文も書けないくらい難しい。
という前提のもとで自分の理解(もしくは誤解)を書く。

3巻を読んでいて印象に残ったのは、過去の哲学者たちの考えていたことが、ハイデガーとしては納得のいかないものであったということ。特に3巻においては、デカルトの哲学に対する批判が述べられている。

デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という命題が問題になる。
我、というのは、あなたや私のような「自分」であり、本書では「現存在」という表現で語られる。デカルトの命題にあてはめると、「現存在は思考する存在だから、ここに実在するのだ」ということになるかと思う。
しかし、ハイデガーはそこに疑問を呈する。「自分は本当に現存在なのだろうか、実在するのだろうか」と。我々の生きている世界は「空気」に動かされている。酸素のことではなくて、雰囲気のほうの空気だ。翻訳者の中山元氏は、「いじめ」を例にあげて、「それは誰がはじめたというよりは空気がいじめを作りあげて、いつの間にか広まっていく。だから、いじめをはじめた個人を特定することが難しくなる」といったような説明をしている。「いじめの犯人は特定できる」かどうか、という議論ではなくて、空気とはそういうものだという説明として解釈してもらいたい。

ここで登場するのが「世人(ひと)」という概念だ。これは人間ではあるのだけれど、誰とは特定できない「ひと」なのだ。「いじめ」の例でいうと、いじめをはじめるのは、この「世人」だという。それは、あなたであり、私でもある。そして、誰でもない存在だ。
つまり、「現存在」は「世人」であると同時に、「世人」に支配されている存在でもある。「我思う、ゆえに我あり」という命題が「私という人間は自ら思考するから、私なのだ」という意味なのだとすると、「世人」の作り出す空気に支配されている現存在は、はたして現存在なのだろうか。という問いが生まれる。

3巻で語れるのはここまで。
本の半分程度をしめる中山元氏の懇切丁寧な解説なしではほぼ理解できない。1927年のハイデガーのメッセージを、小生はほぼ100年のタイムラグを経て、2023年に受け取っている。中山元氏の解説は、読者が少しでも理解できるように、現代の事例によせてわかりやすくかみ砕いてくれる。正直いって、ハイデガーの文章を読んでから解説を読むと「本文にそんなこと書いてあったっけ」と思うことも多々ある。それでも、少しずつ読み進めるにつれて、ハイデガーの考えていたことが少しずつ理解できていくというのはいいものだ。
ちなみに本書は8巻まであるので、次でようやく折り返し地点ということになる。旅路はまだ長いな。

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