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高野公彦『明月記を読む 下』(短歌研究社)

 上巻に引き続き藤原定家『明月記』を読んでいく書。後鳥羽院に随いて熊野御幸に詣でる、千五百番歌合が行われる、父俊成が亡くなる、新古今集が成立する、実朝と交流する、順徳天皇の和歌サロンの一員となる、承久の乱が起こる、古典を書写する、などの出来事が、定家の詠んだ和歌を中心に語られる。

 以下は気になったことのみ。

〈西行は花に浮かれる人であつたが、定家は月に浮かれてゐる。浮かれるとは、魂が体からさまよひ出ることで、むしろ尊いことなのだ。詩歌とは所詮、雪月花に浮かれることであらう。〉
 魅力的な文だが、この「浮かれる」という語の定義は共通のものなのだろうか。それとも高野がそのように思う、ということだろうか。古語辞書などを調べても、このような定義は出て来なかった。古典にあるのだろうか。

〈《和歌所の輩を狂連歌に籠め伏すべき由結構す。(…)》
(連歌の)有心(うしん)無心は「亭子院の殿上人ども、有心の人無心の人選り出でなむとするほどに」(延喜十六年庚申亭子院有心無心歌合)といふのが最初の用例らしい。一般的に、有心は優美な情趣を持つもの、無心は卑俗で諧謔的なもの、といつたふうに区別される。/優美さの極致に達したやうな新古今集、及びそれを撰進した和歌所の歌人たち、一方、それに対抗して諧謔の心を持ち込まうとした歌人たち、といふ構図がここで浮かび上がつてくる。完成したものは衰へ壊れてゆくほかなく、また、それを壊さうとする新しいものが発生する。これは歴史の真理であらう。〉その後、島津忠夫の『連歌集』(新潮日本古典集成)の巻末解説より、新古今歌人たち有心衆と、狂態の句を付けようとする無心衆の、どちらが多く句を続けるかに興味の中心があったことが挙げられている。和歌は集中力と気迫が必要だが、連歌は気安い息抜きだったとのこと。これは序詞の「有心の序」「無心の序」と言葉は一緒なので注意が必要だ。

 定家が源実朝に送った『近代秀歌」から。
〈父俊成の残した「歌は広く見、遠く聞く道にあらず。心より出でて自(みづか)らさとるものなり」といふ言葉を引いて、自分はまだこの教訓に到達してゐない、と告げる。これは「和歌は知識を広く遠く求めるやうな道ではない。自分の心の要求から出発して、その要求の答を自分で悟り知るべきものだ」の意であらう。(…)そして『近代秀歌』は、作歌の原理を説いた有名な次の言葉に続いてゆく。
 《詞(ことば)は古きを慕ひ、心は新しきを求め、及ばぬ高き姿をねがひて、寛平以往の歌にならはば、自(おのづか)らよろしきこともなどか侍らざらむ。》
 歌に用いる言葉は古典的な歌語を選び、内容的にはまだ詠まれてゐない新しい世界をとらへるのがいい。誰も及ばぬ理想的な歌の姿を希求して、古今集以前の歌を学ばうとすれば、しぜんと良い結果を生むことだらう。…/定家は、歌の外面は古典風なのがよく、また内容は新しさが必要だ、と述べる。表面的な新奇さを嫌ふ一方、質的な新しさを大事にする、といふ考へ方である。〉
 この辺りは、堀田善衞は否定的だったが、高野は大変肯定的なようだ。

前項に続く部分。
〈このあと本歌取の方法について具体的に述べる。本歌取に引用する詞句の例として「いその神ふるきみやこ」「郭公(ほととぎす)なくやさ月」「ひさかたのあまのかぐ山」「たまぼこのみちゆき人」などは使用して構はない。「年の内に春はきにけり」「そでひちてむすびし水」「月やあらぬはるやむかしの」「さくらちるこのしたかぜ」などは使用してはならない、と説く。前者はよく使ふ慣用句だから使用可、後者はそれぞれの作者の個性がにじみ出たオリジナル詞句だから使用不可、といふことである。〉これはちょっと覚えておきたい。

〈俊成、定家、為家は「御子左家」と呼ばれた。為家の息・為相(ためすけ)から「冷泉家」を名乗り、現在は第二十五代目の冷泉為人氏が家を継いでゐる。冷泉家は、今でも古式に則って歌会や乞巧奠(きつかうでん)などを行ひ、さまざまな公家文化を継承してゐる貴重な「和歌の家」である。〉
同志社大学の横の冷泉家。時雨亭文庫。

〈おそらく定家は書くことに没頭することで内なる〈鬱悒(いぶせ)さ〉を打ち払はうとしてゐたのではないかと思はれる。この〈鬱悒さ〉から生まれた二つの作品、その一つが和歌であり、もう一つが明月記であつた、と私は思ふ。〉分かる。心の中の何かを追い払おうとして書く。書くことによって救われる。

 その他、近代語だと思っていたのに中世でも使われていた語として、「江水(かうすい)を望んで独り徘徊す」の「徘徊」、承久の乱の記に頻出する、「自殺」「逮捕」など。言葉の新旧は一見では見分け難いことを再確認した。

短歌研究社 2018.11.  2800円(税別)




 

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