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『雪岱が描いた夜』米川千嘉子(本阿弥書店)

第十歌集
 2018年春から2021年秋までの462首を収める。前半は平成から令和の改元期、後半はコロナ禍の日々を詠う歌が多い。幅広い題材を確かな作歌力によって支えた歌が多い。社会の問題に、個人の視点で鋭く切り込んだ歌が多かった。逆に子育て期や父親の介護期に見られたような、個人的な悩みを強く詠った歌は数が少ない。
 字余りや句割れ句跨りなどの韻律的な工夫も多く見られる歌集だ。

〈朽ちて土に還る家〉の写真見てをりぬ人の崩(く)えゆくごとくくるしゑ
 自然素材だけを使って作られている家だろうか。人が住まなくなり、朽ちていけば最終的に土に還ることになる。地球にやさしい、と言えばそうだろう。しかし、朽ちている最中の家を写真で見ると、まるで人が死んでその身体が崩壊していくのをみるような気になってくる。見ている方が苦しい。写真を見ていなくても、それが想像できる歌だ。

  三省堂『現代短歌大事典』編集室にて河野裕子さん(詞書)
夫を待つて残されてひとり世を見つつ女生きると言ひたるものを
 生前の河野裕子を思い出して詠っている歌。2000年に発行された、三省堂『現代短歌大事典』の編集委員を作者も河野裕子も共につとめていたのだ。その頃河野裕子は、多忙な夫である永田和宏の帰りを待つ毎日だったのだろう。そのように待ちながら、おそらく夫が先に死に、自分は一人この世に残されて世の中を見つつ生きるのだと言ったのだろう。皮肉なことに河野はこの後、癌を発病し、夫より先に世を去ってしまう。結句の「言ひたるものを」の「を」に、それなのに先に逝ってしまって、という感慨が込められている。人の寿命だけは分からないものなのだ。米川も自身の寿命に思いを馳せたことだろう。

湯豆腐を食べればだれかわがうちに温(ぬく)とく坐りまた去るごとき
 とてもよく分かる感覚。湯豆腐を食べた時に身体が温まり、やがてまた元に戻る。それを誰かが自分の内側にほんのりと温かく座り、そしてまた去って行くようだ、と捉えた。比喩の歌なのだが、体感を伴って読者にも追体験をさせるような比喩だ。

平成に良かりしひとつ母の日の白カーネーション無くなりしこと
 内容に激しく頷く。昭和の頃は母の日に子供たちは学校で色紙でカーネーションを作った。お母さんにあげるために赤いカーネーションを作りましょう。だが、母のいない子は白いカーネーションを作った。作らなければならなかったというか。どうしてそんな残酷なことがされていたのか、今ではもうよく分からないぐらいだ。家へ帰って白カーネーションをお父さんか祖父母に渡していた子供たちが、大人になって今の社会にも一定数いるはずなのだ。無くなって良かった慣習。それを忘れず歌にした作者の心の有り処に共感する。

人生はくるしみでせうとだれか言ひフォークからまた逃げるひよこ豆
 作中主体はレストランで食事をしている。ひよこ豆をフォークで捕えようとしているのだから、ちょっとしゃれたランチなのだろう。そこに誰かの話す声が聞こえてくる。「人生は苦しみでしょう」と。おそらく一緒に会食している人ではなく、席の近い誰か見知らぬ人の言葉だろう。それがまるで一つの真理のように主体の心に刺さる。フォークで捕えられず、困っていたひよこ豆がまた逃げる。主体の心にも「人生は苦しみ」と思うような出来事があったのだが、それをはっきり思い出す前に、ひよこ豆がまるで気を逸らすためのように逃げていく。

跨ぎたる男はわれの息子でない確かめながら見上げて睨む
 連作の前後の歌から、電車の中でバランスを失って倒れた老人を、電車に乗り込んできた若い男が舌打ちしながら跨ぎ越えた。作中主体は友人と共に老人を助け起こしながら、その男を見上げて睨みつける。それだけなら、正しい自分と、非常識な他人というありがちな図なのだが、この時、主体はその非常識な男をまず、自分の息子かどうか確認したのだ。もしかしたらその若い男は自分の息子かも知れない、という怖れ。自分の息子であってもどんな行動をしているかは分からないという怖れから、まずそのことを確かめて、息子ではないと確認できた時点で睨み始めた。もしかしたら親切そうに善人として振舞っている自分が加害者になるかも知れない危険。その思いが読者の心にも同時代を生きる者として届いてくる。

感情の現実にふかく負けゆかむ冴えたる比喩も濃きてにをはも
 20年ぐらい前に短歌を始めた筆者はよく「感情をそのまま書いてはいけない、感情語を使ってはいけない」とよく言われた。米川も同じ年代なので似たような教えを受けたのではないかと思う。冴えた比喩や、「てにをは」を工夫することによって、微妙な感情を表せというような指導だろう。しかし最近の短歌は感情語をそのまま使う、強い表現が使われる歌も多い。そうした感情を現実そのままに表す歌がもてはやされ、技術的に工夫された歌は深く負けてゆくだろうと考える。自分が大切にしてきたことが、顧みられなくなる時代の到来をつぶさに感じているのだ。

一生を肌身離さずもつ物のどんどん減りてはだかにちかづく
 断捨離、ミニマリスト、などの言葉が流行るように、「物」の価値はどんどん下がっている。今は物を持たないことがトレンドなのだ。一生を肌身離さず持つような物はどんどん減っていっている。「もったいない」と言って物を捨てない人は時代遅れになってしまっている。そんな時代に自分の大切にしてきた物を振り返って考えているのだろう。人間は裸で生きているのに近づいてきた。持ち物を減らし、借りて返し、所有しない。価値観の変動の真っ只中に今我々はいるのだ。

  娼妓の儀式(詞書)
土間に蹴落とされてはだかで飯を食ふ手を使はずに人界の外
 連作「龍の打ち掛け」より。国立歴史民俗博物館に「性差(ジェンダー)の日本史」展を見に行った際の一連である。詞書の通り、一人の女性が娼妓となる時に通らされる儀式について見た記録である。あまりに痛ましくて見るに耐えないような儀式であったのだ。もう自分は人間ではない、ということを女性自身に体感させ、逃げられないように意識づける。このようなことが近代まで行われていたのだ、といううそ寒い実感。結句の「人界の外」に作中主体の思いが滲む。こうした娼妓たちから現代の女性はどれほど遠いところに行けているのか、という疑問も滲むようだ。

引つ越しで行方不明の線量計そのやうに不安は見ないで生きる
 引っ越しをした時に、線量計が行方不明になった。東日本大震災の時に、多くの人が買い求めたであろう線量計。それを使って放射線量を測って生活していたのだ。しかし今日、線量が高いからと言って、決定的に何かをできるわけではない。そうして時間が経つにつれて、少しずつ線量計は使われずになっていき、ついに引っ越しでどこにしまったのか分からなくなった。もう線量計で放射線量を測ることはできない。不安を数値化すること無く、毎日の生活を送らざるを得ないのだ。それが案外、気持ち的に楽だったりする。不安は見ないで生きれば、もう見るのが億劫になり、怖くなってしまうのだ。

 本阿弥書店 2022.3. 定価2970円(本体2700円)

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