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横山未来子『とく来りませ』(砂子屋書房)

 第六歌集、461首を収める。繊細なタッチで身の回りを精密に描写する。植物や虫や鳥などを描いた歌に心を惹かれた。ベースにキリスト教への信仰心がある。穏やかで静かな口調で語られる生の細かな襞が魅力だ。

水に触るるごとくかをりにふれて見る薄日のなかの梔子の白
 
どこからともなく漂って来る香り。その香りにまるで水にでも触れるように触れた。そして目を向けると、薄ら日の射す中に梔子の花があった。薄い日の光の中で梔子の白い色が際立つ。初句二句の比喩が体感に訴えてくる。

ほぐれやすき十月の雲静かなりのこれる日日をひとと生くること
 
十月の空の雲は、しっかりした夏の入道雲などと違ってほぐれやすい。いかにもすぐに離れ離れになりそうな風情で空に静かに浮かんでいる。自分の人生の残り時間の日々を自覚し、その時間を「ひと」と生きていくのだと自分の中で再確認している。もちろん「ひと」は特定の人物を指すのだろう。 

ひとのをらぬ部屋に入りて水仙のかをりのなせる嵩をくづしぬ
 
人がしばらくいなかった部屋。そこには水仙が活けてあった。その部屋に主体が入ると、こもっていた香りが動いた。そして薄くなっていく。その香りの動きを「嵩をくづ」すと表現した言語感覚が鋭い。誰もが気づいていながら言語化できなかった、ごく微妙な動き。

一本の火を生みたりし感触ののこれる指を湯にひらきゐつ
 
マッチを擦って火をつけた感触を「一本の火」と表現したのではないか。今ではマッチを擦る機会も少なくなってしまった。何となくその時の指の感触が残っているのだろう。それをその日の入浴の時に、湯の中で指を開いて思い出している。火をつけた、ではなく、火を生んだと捉えたところが詩なのだ。

ひと生のうちに二度とはあはぬ彗星のはなれゆく夜をめざめずにをり
 
大きな楕円を描いて宇宙を旅する彗星。地球に近づいて、また、遥かに遠ざかって行く。一生に二度同じ彗星を見ることがないという長い周期だ。その彗星が遠ざかって行く夜を、空を眺めることなく眠っている。主体の眠っている空の上を彗星が過って行くのだ。美しい一枚の絵のような歌。

花のひかり落ちる水面をすすみゆく水鳥に花の冷えは移らむ
 
花びらが光を反射している。その光が水に落ちる。花が水面に映っているのだ。その水面を進んで、花の像を横切ってゆく水鳥。水鳥は水に映る花の姿などに無頓着だ。その水鳥の身体に花の冷えが移るだろうと詠う。花が冷えている、というそもそもの把握とそれが鳥に移っていくという感覚。花の冷えはそれを見る主体の身体の奥の冷えなのだろう。

十二階の窓の硝子に突きあたりし鳥の脂の曇り見てをり
 
建物の上層階のガラス窓に鳥が激突する。よく聞く話だ。鳥にはそこにガラスがあることが分からないから、かなりの速度で当たって死んでしまうこともある。この歌からは鳥がどうなったか分からない。しかし、ガラスに鳥の脂が曇りのように残っていた、という観察が衝撃的だ。鳥の身体にそんなにも脂があるのか。あるいは身体の内部の脂がガラスにこびり付くほどの強い衝突だったのか。淡々とした詠い口にも驚く。

いま全くひらきをえたる花びらの磁器のやうなるしづけさを見つ
 
前後の歌から朴の花だろう。「全く」は完全に、という意。今完全に開き終えた瞬間。咲きかけでもなく、傷み始めてもいない。咲き終えた瞬間の静謐さ。それを磁器に喩えた。朴の花びらの質感が過不足無く伝わってくる。主体の心にもそれに感応する静けさがあるのだろう。

時計草の花にさしたる蘂の影この世にありて何かうしなふ
 
時計草の花の突き出した蘂は、時計の針のように見える。その蘂の影が花に映っている。結句の「何かうしなふ」は反語で「何か失うだろうか、いや、失わない」と取った。この世に存在している自分には失うものは無い、と取る。時計草は英名passion flower。キリストの受難を象徴する花。キリスト者の作者には特別な思いがある花なのかもしれない。

小動物のやうにひそめる手袋を取り出だしたり朝の外気へ
 
朝、家を出て、外套のポケットに手を入れる。そこには小動物のように手袋が潜んでいた。ここにあったんだ、という思いで手袋を取り出す。こっそり隠れていた手袋は朝の外気の冷たさに触れて、小動物から手袋に戻っていく。吐く息の白さが伝わるような歌だ。

砂子屋書房 2021.4. 3000円+税


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