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『おかえり、いってらっしゃい』前田康子(現代短歌社)

著者第六歌集
2017年後半から2022年前半までの440首余りを収める。
 成人し、職を得て、家を離れていく子供たち。老いていく親。家族の形は刻々と変化していく。作者自らも病気になり、その経験を詠っている。
 また本歌集では今まで以上に社会へ向いた眼を感じた。ハンセン病歌人、水俣、辺野古・・・。家族から社会へとなだらかに視線はつながり、ことさらに気負うことなく詠い続ける。一人の人として、女性としての立ち位置から。

かなわなかったことを灯らせ咲いている螢袋となりて女(おみな)たち
 螢袋の花の中に螢がいて灯っているように、自分の中にかなわなかった思いを灯らせて咲いている。花びらを透かすようにかなわなかった思いが女の身体を透かして見えるのだ。女たち、と複数で言うように、社会の片隅で歴史の表面には浮かんで来ないところで女たちは叶わない思いを抱え込んで生きてきたのだ。

使い道なければ義母の集めいし美(は)しき紙箱つぎつぎ潰さる
 お菓子などの入っていた美しい紙箱。いつか使うかも知れないと思って取っておく人はよくいるだろう。人によっては、箱であったり、缶であったり、壜であったり。包装紙のこともあるだろう。やはり女性が多いだろうか。いつか何かを入れよう、そんな思いを持って捨てられずにいたささやかな美しいもの。しかし本人が死んだ後、他の人たちにとってそれは何の役にも立たないものだ。義母の死後、その紙箱が次々と潰され捨てられていく。潰している人たちは、決して義母の人生を否定するつもりでは無いけれど、見ている作中主体の心は痛むのだ。

見送りはいいよと言えば片手あげ人ごみにすぐのまれゆきたり
 久しぶりに子に会いに行って、その別れ際。主体が、見送りはいいよ、と言えば、子は挨拶代わりに片手を挙げ、人混みに紛れて見えなくなった。べつに今生の別れではないからいいのだけれど。でも寂しい。子と離れて一人で歩き始める時に、寂しさが主体の心を強く圧してくるのだ。

手話のひとはマスクはできず 指を輪に動かしコロナウイルス示す
 コロナが流行し始め、マスクをするのが強制のように定着し始めた頃、マスクをしない人を攻撃するような風潮があった。そこには何でも一律にしようとする日本社会の習癖と、それができない人への配慮を欠いた視点があった。この歌はそんな時期に詠まれていたように記憶する。手話の人はマスクは出来ない、そんな当たり前のことも見落として時期が確かに日本社会にあったのだ。コロナウイルスを示す、指で作った輪を動かしている手。それだけを描いて、主体の心は語らずに行間に示している。

工具もてしっかり螺子を留めくれき出ていく前に息子はふいに
 家の中に螺子の緩い場所はいくらでもあるだろう。住んでいる者は気にしていない。あるいは気づいてもいない。家を離れて暮らしている息子には、それが目についたのだろう。帰省から自分の家に帰る時、不意に工具で緩んでいた螺子をしっかりと留めてくれたのだ。まるでずっと気にかかっていたことを思い出したように。そんな時、息子は、自分の子であると共にもうこの家の住人ではないということを作中主体は「不意に」強く意識するのだ。

 『水俣 胎児との約束』を読む(詞書)
胎盤のなか通り抜けやすやすとメチル水銀わが子へ流れき
 母胎にあったメチル水銀が、胎盤をやすやすと通り抜け、胎児へと蓄積されていく。場合によっては、母体の体調がそのことによって改善することすらあるという。もちろん、主体の子のことではないのだが、本を読んでいる時に強く感情移入して思わず「わが子へ」と詠ってしまう。自分が妊娠していた時の記憶が蘇ったのかもしれない。お腹の子どもに良いようにと母親は食べる物にも配慮するものだ。それと同じ理屈で悪いものも胎児に届いてしまう。戦慄しながら読んでいる主体の気持ちが伝わって来る一首。

二人子が手足使いて登りいしジャングルジムのはつか錆びゆく
 子育て世代が多く住んでいた地域は、子供の成長に伴って町そのものが老いていく。家族が老い、団地が老い、公園が老い、町が老いていくのだ。新しい住宅や団地が建ち、公園が整備された頃にぴかぴかであっただろうジャングルジム。今そのジャングルジムに錆が浮いている。家族も公園も若かった頃、子供たちが一生懸命登っていたジャングルジム。古びたジャングルジムを見ながら、子供たちが子供であった頃を思い返しているのだ。

  舌読に使われた点字版を初めて見た(詞書)
舐められてやがて言葉となりてゆく速度思えり点字亜鉛版に
 ハンセン病患者が暮らしていた長島愛生園を訪れた時の歌。主体は、初めて見た、と詞書に書いているが、多くの読者にとって「舌読」という言葉自体が初めて聞くものだろう。点字を指でなぞるように、点字亜鉛版を舌でなぞって文字を読んでいく。その気が遠くなるほど長い時間。初句から生々しい動作が思い浮かぶ。そうしてでも人は文字に触れたいと思うのだ。実景の持つ強さが歌に力を与えている。

おかえりといってらっしゃい言えぬ場所へ子ら二人とも行ってしまえり
 成人し、職を得て、家を離れていった子供たち。それはある意味、子育てのゴールであり、おめでたいことだとも言えるのだ。しかし、朝出かける時に、夕方帰って来た時に、かける言葉によって、一つの家に属する家族なのだという思いを確認していたことに、気づいた。いなくなったからこそ気づいたのだ。二人とも、という言葉に、巻き戻せない時間を惜しむ気持ちが滲む。

咲いているのか咲いてないのかベランダの花たち黒い もう朝なのに
 病いの告知を受けた後の歌。花が咲いているのかいないのかも分からない。花が黒く見えている。そうした感覚の変異を描き出す。前後の歌からショックを受けたことが分かるのだが、ベランダにある花が黒く見えるというこの一首に心が強く衝撃を受けたことが最も強く表れている。母として子を見つめていた視線が、自分に強く向いた。そのため見えるものが見えなくなったり、またその逆を感じているのではないだろうか。

現代短歌社 2022.8. 2000円+税

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