見出し画像

橋本陽介『日本語の謎を解く』(新潮選書)

  高校生からの日本語に対する質問に対して答える形式で言語学が語られた本。生徒の質問が身近なので、納得しながら読み進めることができる。難しい用語も使われていないし、これ以上は専門的、となったらその章は終わる。少しずつ蘊蓄が増えた感が得られるのがうれしい。
 以下は自分用の忘備録的メモであり、感想には、短歌作者としての視点も入っている。

「第四章 言語変化の謎」
 〈意味は狭まることもあれば、広がることもあります。例えば、「かしこし」という語は、「恐れ多い」が中心的な意味でした。これは「かしこまる」という形で今でも生き残っていますし、手紙の最後につけられる「かしこ」もこの意味です。一方で、恐れ多い人というのは、地位や能力の高い人ですから、そこから「尊い」という意味に発展し、さらには「頭がいい」という意味にも使われるようになりました。このように、意味は連想によって広がります。このような意味の広がりを比喩的拡張と呼びます。「かしこし」はその後、比喩的拡張を遂げた「頭がいい」の方が中心的な意味となりました。
 古文に対して、「現代語とまるで違う」という印象を持つ人も多くいます。しかし、ある言語の基本的な単語のうち、千年の間に滅びたり意味が変わったりしてしまう単語は全体の二十パーセント程度だという研究があります。服部四郎という研究者の統計でも、平安時代の基本的な単語のうち、滅びるか変化したのは23パーセントだとされています。〉p88~89
 比喩的拡張による単語の意味の変化は常に起こっている。少しずつ意味は変化していくのだ。劣化ではなく、変化。使えば必ず変わる。逆に平安時代によく使われた単語の8割は生き残っているというのは驚いた。これではそれを古語と呼んでいいのか、現代語と呼んでいいのか、迷う。

 〈「ふんいき」と「ふいんき」とでは、「ん」と「い」の位置が入れ替わっています。このように音の位置が変わってしまうタイプの変化は、音位転換と呼ばれます。〉p90
 こういう名前が付いているんだな。子供の頃、「ノスタルジー」と「ノルスタジー」のどちらが正しいか何度覚えても覚えられなかった。今も「アナフィラキシー」と「アナフィキラシー」のどっちが正しいか咄嗟に分からない。これが集団的に起こると音位転換になるのだろう。

 〈「全然~ない」のように、副詞などが一定の文末表現に結びつくことを「呼応表現」と呼ぶことがあります。(…)否定表現の「な~そ」や、少し性質は異なりますが係り結びなどを例として挙げることができます。
 現在でも「少しも~ない」「決して~ない」「たぶん~だろう」のように、呼応する表現は少なくありません。(…)
 呼応表現は、基本的にこのような話し手の心的態度にかかわることを表します。〉p96~97
「全然~ない」と呼応していればいいが、していない問題について。「全然+肯定形」でも気持ちは否定、という説明。
〈強調表現というのは、次々に新しい言葉が生まれやすい分野なのです。〉p98
さらに「全然」が強調としてのみ使われている、という説明。さらに「やばい」「超~」などが挙げられており納得だ。

〈言葉というのは常に変化していくものですし、むやみやたらと変化しているというより、それなりの法則性が見いだせるケースがほとんどです。(…)言葉の変化は、複雑すぎる場合には単純になっていきますし、逆に単純になりすぎれば複雑になっていきます。(…)循環的に変化するものです。(…)「正しい日本語」とは、ある時点の日本語の姿を整理して、それを人為的に規範にしたものに過ぎません。(…)正しいと決めたから美しいと感じているだけなのです。〉p99
 この身も蓋も無さが好きだ。自分が慣れた言い方を正しく、美しいと感じているだけなのだ。

第五章 書き言葉と話し言葉の謎
 〈現在教科書などで使われている歴史的仮名遣いは、明治時代に決められたものです。〉p112
 こういう気づきが好きだ。言われてみればそうだ。明治以前は複数の仮名遣いが並立していたことは皆薄々知っている。
 〈江戸時代の本を見てみますと、「わ」と読む「は」はわざわざ片仮名で書かれているのが普通です。〉p117
 こちらは現代仮名遣い(昭和21年)について。「は」「へ」「を」が歴史的仮名遣いのまま残されたことについて。

 〈二葉亭四迷はロシア文学の翻訳という形を通じて、新しい文体を生み出すことになりました。(…)ヨーロッパの小説は過去形を使いますし、語り手はあたかも存在しないかのように客観的に語ります。そこで四迷も、文末に「た」を採用することにし、西洋的な主語―述語を基本とする「文」の単位を導入することにしました。つまり言文一致とは、実際には比較的口語に近いとはいえ、新たな書き言葉の創出だったのです。〉p124
 言文一致を徹底的に実行することは不可能だろう。現在でも全くの話し言葉と書き言葉は同じではない。

〈昭和期になると、女言葉が「よき伝統」と結び付けられ、女性は「女性らしい言葉づかいをするべきだ」という社会的な圧力が強まったのだといいます。〉p128
 古いことではないのだ。

〈日本語には、「だよ」「ね」「のか」「か」「だろう」などなど、文末につける言葉(文末詞)がたくさんあり、それによって強調、疑問、推測など、さまざまなニュアンスを表してきました。「だよ」「なんだから」となっていれば、強調していることがわかりますし、「か」があることによって疑問のトーンであることがわかるのです。〉p132
 古語でいうところの「終助詞」か? 現代語では「文末詞」になるのか?

第六章 「は」と「が」、そして主語の謎
〈(助詞や助動詞の活用表は)江戸時代の研究が元になっています。(…)西洋の近代的な言語学と江戸時代からの研究を折衷した日本語文法を考えたのが大槻文彦です。〉p136
 山田孝雄(よしお)、松下大三郎、橋本進吉、さらに、時枝誠記の名前も覚えておくべきだろう。学校文法の基礎は橋本進吉とか。

〈文章の骨格は述語と格を持った名詞句から構成されているのです。〉p139
述語が基本なのだな。すぐ主語かと思ってしまうが。

〈英語などのヨーロッパ言語は、原則としてものごとを客観的な視点から語る構造を持っています。ヨーロッパ言語を母語とする人たちにとっては、日本語のように登場人物の主観的な視点に同一化してしまう文は、理解が難しいと言われています。〉p159
 ここでは主に小説の視点だが、短歌でも言えることだ。
〈日本語は話し手自身を中心とした主観的表現を好むのに対して、英語では話し手の「わたし」自身すらもなるべく外から客観的に眺めて話そうとします。〉p160
 これもよく短歌の視点で問題にされる点だ。
〈今でも「けれども」という言葉を逆説の条件で使いますが、これは「けり」の已然形に「ども」がついた形ですから、已然形が逆説の条件で使われたことの名残です。〉p172
 「已然形」の名残の例として覚えるのに適している。

第七章 活用形と語順の謎
 〈連用形の文法的意味は明らかです。(…)後ろに用言が来る場合の形です。また、(…)文を終わらせずに続けるときにも連用形を使います。(この用法を中止法と呼びます)。(…)連用形はそのまま名詞になる場合があるのです。〉p177
 連用形で短歌一首を終わる、ということの理由がここにあると思う。

〈現代語では、終止形と連体形の形が完全に一緒になっています。(…)実は終止形という形はすでに滅亡しています。連体形で文を終わらせるようになっているのです。ただ、古文との連続性を重視しているため、形はまったく同じでも連体形と終止形という二つの活用形を認めています。〉p178
 終止形は滅亡している、って結構ショッキングだ。

〈「ます」は「参らす」という動詞が縮まった形です。もともと動詞(つまり用言)なので、その前に来る語は連用形になります。「た」は「たり」という語の子孫と考えられており、(…)「き」は「来」だったものが付属語になったもので、「けり」は「来+あり」が縮約された形、「つ」は「棄(う)つ」、「ぬ」は「去(い)ぬ」が縮約された形という説が有力です。(…)「たり」ですが、これは「てあり」が縮まった形です。(…)「て」も文を終わらせずに先に続ける形だからです。〉p182~183
 元の形を知ると色々見えて来る。文を続ける連用形に「て」を加えてもほぼ意味は変わらない。連用形で一首が終わること、と、「て」止め、は同じことなのだ。

〈未然形に「読ま」「読も」の二つの形ができてしまっています。「読も」の形を取るのは「読もう」という時だけです。なぜこの形が未然形と認定されているかというと、「う」が意思を表す助動詞の「む」から変化したものだからです。(…)「本を読んで」の「読ん」も連用形とされます。これはもともと「読みて」だったものが(…)。現代語では已然形に替わって、仮定形が出てきました。仮定形は、後ろに助詞の「ば」が来るときにしか使いません。〉p184
 この後の未然形「読まば」と已然形「読めば」、また未然形が廃れたのに、未然形の意味を已然形で表していることなど、なかなかややこしい。

〈古文では主語が生物か生物でないかは関係なく、「あり」を使っていました。「いる(ゐる)」は「座る」という意味だった(…)〉p186
 古文の「ゐる」の例文が欲しいところ。

〈丁寧に話す時に現代語では動詞には「ます」をつけ、それ以外の述語には「です」をつけます。どちらも古文には登場しないことからもわかる通り、比較的新しい言葉です。〉p192
〈昭和27年の国語審議会の決定により、「美しいです」のように、形容詞の後に「です」をつける形も認められることになりました。〉p192
 そういうのは審議会の決定で決まるものなのか。この本で一番びっくりしたことかもしれない。

第八章 「た」と時間表現の謎
 〈日本語は、後ろに動詞や助動詞を付け加えることによって文法的意味を変える言語です。古文に目を向けると、過去や完了を表す助動詞としては、「つ、ぬ、たり、り、き、けり」と、実に六種類もありました。これらを使い分けることによって、微妙な意味の差を表していたのです。ところが、こういった細やかな使い分けは徐々に失われていき、「たり」が縮まった「た」だけですべてを表すようになってしまいました。〉p200
 これが一番短歌で言われていることだ。その分「た」の機能やニュアンスが増えた、と話が続いていく。しかし、現代語として、「た」以外にどんな過去の表現(助動詞に限らず)があるかは述べられていない。今までのところ、どんな文法書にも無かったと思う。

〈古文で完了を表す助動詞はいくつかありますが、中でも「つ」と「ぬ」がよく使われます。(…)「つ」は他動詞に、「ぬ」は自動詞に使われることが多いということは確かです。そこで「つ」は意識的動作の完了を表し、「ぬ」は無意志的動作の完了を表すのではないか、とする説があります。(…)「つ」というのは動作が完全に終結することを表し、「ぬ」は動作の開始が完了することを表せるのではないか(…)〉p206
 実は「つ」と「ぬ」の用法ははっきり区別されていないということか。後半は著者の私見ということだ。

〈小説の場合と日常の言語使用ではいくつかの違いがあります。そのうち、もっとも大きいのは、この「物語現在を現在として語れること」と、「人物の内面に自由に出入りできること」の二点であり、これこそが物語を物語たらしめる要件なのです。〉p218
 物語現在により、小説の文章末は「タ形」と「ル形」が混じる形になっている。基本、「タ形」と「ル形」は書き言葉の話であり、小説のような叙述の話だ。短歌に当てはまるとは限らない。

新潮選書 2016.4. 定価:本体1300円(税別)








この記事が参加している募集

読書感想文