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森まゆみ『本とあるく旅』

 「本に誘われるように旅を重ねた作家」という帯文がそのまま当てはまる本。本で読んだ地に出かけ、それに触発されて他の本や作家に思いが到る。縦横無尽に多ジャンルの本や作家が登場する。作者の博覧強記ぶりに感嘆した一冊だった。

〈松山藩は戊辰戦争では幕府方について、負け組であった。子規が仲良くした人々は、江戸の名主の漱石、幕府御茶坊主衆の子供の幸田露伴、根岸党の人々、恩人陸羯南(くがかつなん)、青森の佐藤紅緑(こうろく)など、幕臣や負け組の出身者が多い。〉「松山人・子規とくだもの」

 これは文学史だけでなく、明治以降の歴史を見る時に忘れてはならない観点だと思う。明治維新の負け組という損籤は現代まで地下水脈のように続いている。権力闘争だったのに、勝ち組の維新側を江戸時代に遡って「志士」とか呼ぶのは違うだろう。

〈その膝に枕しつつも/我がこころ/思ひしはみな我のことなり 石川啄木 こういう自己中心の男と付き合うと女は不幸になる。〉「釧路の石川啄木」

 この啄木の歌はいいのではないか?なぜかというと自分が自己中心的な人間であることを自覚しているから。もっといけないのはその自覚がない人じゃないかな。

 〈ここはリアス式の入り組んだ海で、少し前までは「段畑(だんばた)」とよばれる階段状の狭い畑がみごとだった。目の前は海、後ろは山、人びとはその急斜面をせっせと開墾した。肥を担って登り、芋麦を背負って降りた。「耕して天に至る」。いまも残る石積みの土留め。その労働の過酷さは想像を絶する。〉〈段畑の上でオジは雑木林を指し、「こんなに荒れてしもうて」と嘆いた。人手が入らず、荒れ果てたのか、自然に戻ったのか、私には分からない。〉「段々畑」

 段々畑や棚田の美しさは、それがどこにでもあった時代は理解されなったのだろう。バリ島に旅行した時、棚田の美しさに圧倒された。人工的な風景ではなるが、全くの手つかずの自然とは違う美しさがある。後半の引用はそれに対しての違う見方を与えてくれる。荒れ果てたと取るか、元に戻ったと取るか。人と自然の関係を考えさせる一文だ。

〈港近くの海岸べりに、今度は高村光太郎の巨大な文学碑を見つけた。(…)一つの大きな石に、幾つもの歌や文章が刻まれていた。光太郎の描いた絵も。〉〈そして私は、海辺の大きな碑のあったあたりを歩き、いくつかに割れて倒れたあの碑を見つけたのである。思わずわああと叫んでしまった。そしてのちに聞いた話によれば、この碑を立てるのに尽力した貝廣さんという釣具屋のご主人も、津波によって命を落とされたということである。〉「高村光太郎『三陸廻り』」

 前半は2003年の、後半は2011年の東日本大震災の後の、それぞれ同じ女川(おながわ)へ行った際の思い出だ。高村光太郎や宮沢賢治、柳田國男に思いを馳せた2003年の旅と、震災後に景色が一変してしまったことを描いた後半部分。実際に目で見た衝撃はいかばかりかと思うが、それでもこうして文章を読んで追体験をすることはできる。

〈私は『風々院風々風々居士ー山田風太郎に聞く』という本を出した。亡くなった作家が忘れられないためには没後すぐ、騒がないといけないからである。〉「奥但馬(たじま)紀行ー山田風太郎さんの故郷を訪ねて」

 これは心に浸みる。没後すぐ、騒がないといけない。亡くなってしばらく経つとその人はどんなに生前の評価が高くても忘れられる。人の忘れることの速さは驚くべきものだ。死者の名前は勝手に残るものでは無い。生きている者が残そうとしなければいけないのだ。

〈インターネットでは歴史上のイケメンに南方熊楠が入っている。確かに若いころのスラリとした姿、目力はすごい。中年になって太ってくると勝新太郎みたいだな、と思った。〉〈もう一人、新宮には佐藤春夫の家もあった。佐藤春夫の父、豊太郎は新宮の医者で和歌も嗜(たしな)む風流人だった。幸徳秋水が新宮に来たときはこの人ちょうど北海道に行っていて会わず、大逆事件連座を逃れた。春夫は上京して慶應義塾に学び、与謝野夫妻の新詩社に入り、堀口大学を知る。〉「紀州の旅ー熊楠(くまぐす)、誠之助、伊作、春夫」

 著者の博覧強記ぶりを示す一文。中里介山、南方熊楠、荒畑寒村、大石誠之助、西村伊作、佐藤春夫、鉄幹・晶子、森鴎外、谷崎潤一郎と名前を知っているだけでも次から次へと文人が数珠つなぎに出て来る。この他、私の知らない文人名もたくさん・・・。

 その他、「松江の小泉八雲旧居ー小泉節子『思い出の記』」「三島由紀夫『潮騒』の神島」「屋久島の山尾三省」「寺山修司『誰か故郷を想はざる』」等が心に残った。これだけ教養があれば確かに旅は素晴らしく楽しいだろうなと思った一冊だった。

産業編集センター 2020.8. 1100円+税

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