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林和清『朱雀の聲』

 第一部は「三月」「四月」「五月」「六月以降」という章立てで、二〇二〇年のコロナ禍を時間軸に沿って描き出したものだ。各章の始めに「新型コロナウィルス国内累計感染者数」として当月一日の感染者数を載せており、三月241人、四月2430人、五月13389人と爆発的に増えていたことを再認識した。
  さくら散る音ゆふやみの迫る音目で聴くもののこの世に満ちて
  そこに泳ぐ魚は水槽が見えるのか人には昼の槽(ふね)が見えない
  マスク忘れて購入するまでの時間……非国民感はんぱなかつた

 一首目、コロナ感染症が目に見えぬまま拡がっていく。桜が散る音や夕闇の迫る音を目で聴く喩えのように、コロナ感染の拡大は数字を目で見るしかない。二首目、魚に水槽が見えないように人間には自分が囚われている檻が見えない。出口の見えない閉塞感が強く伝わる歌だ。三首目、当時、手持ちのマスクを忘れたら出先での購入はほぼ不可能だったと記憶するが、主体は何とか手に入れた。重厚に詠う作風の中で、下句のスラング風の口調が、焦って思わず漏れた本音の感を出す。
 作者の特徴は長いスパンで時間を捉える点だ。歴史の街、京都に生まれ住んでいることとも関係があるだろう。しかも常に敗者の側、闇の側を鋭く見つめる視座を持つ。
  あんたかて殺されたことあるやろと鵺は言ふ鵺は人肌をして
  能面の裏は人体のうちがはのひりつく夜に抵触してゐる

 能「鵺」を題材にした「鵺は人肌」から。怪物・鵺(ぬえ)は源頼政に退治された。人間の側には殺す理由があるが、殺される側には理不尽な仕打ちだ。鵺はふいに観客に向けて、「殺されたことある」だろうと問いかけてもくる。敗けてこの世から消された者達の代弁だ。鵺の能面の内側は、生身の人間の肌に張り付いているのだ。
  天狗といふ異形のものを昼の側にゐるものは黒く蔑して来たのだ
  ゑんゐ、ゑんゐと呼ぶ声のしてふりあふぐ鳶、鴉、蝙蝠みな闇の者

 崇徳院を詠った「夜を見る人」。詞書で悲劇的な出生と、後白河との因縁が語られる。敗者となり、恨みのあまり天狗となった崇徳院は、歴史の負の側面の象徴だ。西行の別称、円位への呼びかけは闇からの呼びかけなのである。 

砂子屋書房 2021年3月 3000円+税

2021.8. 角川『短歌』公開記事                  

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