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松村由利子『光のアラベスク』

第五歌集 第四歌集『耳ふたひら」後、四年間の作品を収める。沖縄に移住して七年。南の島の視点から日本を俯瞰した多くの社会詠が印象的な一冊。少しずつ迫って来る老いを意識した歌も実感がある。ソフトカバーの軽量な装本に現代の造本の特徴を感じる。

にっぽんの大気は湿度高きゆえ和製マクベス血なまぐさくて

 シェークスピアの四大悲劇の一つ『マクベス』。主君であるスコットランド王ダンカンを暗殺して王位につくマクベスの物語は元々血なまぐさいのだが、ヨーロッパの乾いた大気が少しそのドロドロした感じをやわらげてくれるのだろう。和製マクベスとして日本で演じられると、日本の空気の湿度から余計血なまぐささが際立つ。マクベスのあらすじは演劇を見に行く人なら通常知っているので、どんな演出になるかに注意が払われるのだろう。その演出に対する感想だろうか。マクベスの苦悩もマクベス夫人の狂気も、日本の湿度ゆえに誇張して感じられるのだろう。

対岸で誰かが呼んでいるようなかすかな頭痛 月は上弦

 対岸とは何の対岸だろうか。今いる此岸に対する彼岸だろうか。それとも自分の今いる場所に思い描かれる心象としての川の対岸だろうか。どちらにしてもその対岸で誰かが自分に呼びかけているような感覚を主体は感じている。そのかすかな声は脳内をこだまして、頭痛となって感じられるのだ。この歌から茸をテーマにした連作が始まる。少し不気味で不思議な連作だ。結句がその舞台設定となっている。

パール・バック知らない若い人といて知識はそうね皺に似ている

 パール・バックの『大地』は昭和の時代には青少年の必読の書の一つだった。現在ではそうした必読書のような観念は無くなりつつある。パール・バックって誰?と言われ、一瞬驚く主体。けれども「若い人」におそらく、その知識量の多さを褒められて、知識というのは生きていれば必ずついてくる、生の痕跡のようなものである、と考える。「そうね」と挟んで「皺に似ている」と答えるのだ。別に褒められるようなものではない。勝手に増えていく皺のようなもの。謙遜でも何でも無く、そう考えている主体の明るい知性に頷く。

検索はしないあなたが見つかれば余計さみしいサイバー空間

 長く生きてくると、昔の思い出というのが本当に遠く、そんなことあったったけ?あれは前世?といった感慨を持つことがある。だが人生の後半に急速に発展したネット空間によって、その遠い思い出がナマな現在として、目の前にしばしば現れることに戸惑う機会が出て来た。もうかすれかけていた古い思い出が、検索することによって蘇る。それは却って寂しい。昔の「あなた」は少しずつ薄れていってほしい。老いた、あっけない現在として見たくない。だから主体は検索はしない。多くの共感を得られるだろう歌だ。

勝ち組は平積みされて評されて工業製品のごとひしめけり

 歌集か、歌集以外の本か。一般に本屋に歌集が並ぶことは少ないから、歌集以外の本だと思うが、歌集と取っても当てはまる。多くの本が出版され、そして消えて行く。ほとんどの本が何の注目も得られずに消えて行くのだ。しかし、出版社の戦略の成功によって、あるいは何かの偶然で、もしかしたら内容が良いから・・・一部の本は「勝ち組」となって本屋の棚の前に平積みされる。関連書籍や新聞に書評が載ることもあるだろう。そのピカピカと光を弾く表紙を、主体は「工業製品」と見立てる。ひしめき合いながら、それらの本も、その一部を除いて淘汰されていくのだ。

戦場の写真にもある黄金比キャパの構図は美しすぎる

 死を主題とした戦場の写真。その写真を撮る時に、カメラマンも死に曝されながら撮る。多くは技術的に上手く撮れないのではないか。シャッターを切るだけで必死なのではないか。それでも優れた写真家は美しい構図で写真を撮ることが出来る。生きるか死ぬかの現実を切り取るときに黄金比で画面を構成することができるのだ。その写真に芸術的価値があるのはもちろんだが、戦場写真が、あまりに美しいのは却って残酷なのではないかと作中主体は感じている。キャパの有名な「崩れ落ちる兵士」が頭に浮かぶ読者も多いだろう。塚本邦雄の「突風に生卵割れ、かつてかく撃ち抜かれたる兵士の眼」という短歌も連想されるだろう。

わが雨季は突然に来る今一度満開となるもののあれかし

 ある程度の年齢になった作中主体。人生の雨季、豊潤な性愛の時季が今一度自らに訪れたことを感じているのだろうか。突然訪れた再びの雨季。その雨季が自分にだけ豊かさをもたらすのではなく、満開となった自分の生を、共に味わう人があることを祈っているのだ。おそらくかなり確信に満ちた「あれかし」なのではないかと思う。

からだどんどん古びてほつれゆく秋よ水の記憶は淡くなるのみ

 自分の身体は一個しか無く、それを摩耗しないように気をつけて使っていかなければいけない、ということが、若い時には分からない。本当に身体に色々な故障が出て、自分の身体が「古びてほつれゆく」という実感を得て初めて、人は慌てるのだと思う。一年の秋であり、人生の秋。水のようにさらさらと自分の身体を使えていた時代の記憶は淡くなっていくばかりなのだ。

病苦より逃れんとしてキリストに触れたりし指どこまで伸びる

 宗教において、奇跡を起こすこと、多くは病気を癒すことは、人々の信仰を高める大きな契機となる。聖者に触れて病が治った人の噂を聞いて、次から次へと人が集って来る。何が辛いと言って病苦だ、それを逃れるためなら何だってする…。そんな切羽詰まった気持ちが、伸びる指に象徴される。同じ宗教を共有していなくても、人はその気持ちを共有することができる。病苦は、ある程度長く生きていれば必ず対面する苦しみなのだ。

橋を焼くような別れがあったことホットケーキに浸みるシロップ

 上句の大きな風景と下句の小さな現実の落差が、強い衝撃力を持つ一首。別れに対して「橋を焼くような」という比喩が魅力だ。もう引き返せない、絶対に後戻りできない、という決心なのだろう。振り向かないという、きっぱりとした意志が感じられる。焼き立てのホットケーキは、シロップが浸みてしまえば、もう元の素のままのホットケーキには戻れない。そこにあるのはシロップの浸みたホットケーキ。日常の一コマ、別に劇的でも何でも無い場面。しかしその取り合わせによって、強い情念と何も無い日常が、突如同じ角度で切り取られ、結びつけられる。とても好きな一首。

砂子屋書房 2019年5月 2800円+税

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