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『了解』平出奔(短歌研究社)

 ネットの海の中で、実際には一度も会ったことの無い人と結ぶ人間関係。お互いを知らぬままに言葉を交わし、感情を交わす。片手間の交流のようでいて、お互いの心に踏み込み踏み込まれ、お互いに傷つきーーーけれどどうしていいのか分からない。そしてネットから離れている時のとらえどころのない空疎な感じ。これは現代の孤独感なのか。寂しい、という従来の言葉では表し得ない心の様を短歌で描き出す。
 饒舌でありながら、一首の意味を出来る限り削ぎ取った、発話そのものに近い文体。現代語としての意味での口語では無く、限り無く話し言葉に近い口語の文体を駆使する。一字空けや半角空けなどの表記の工夫も目立つ。詞書の多用や、意味性の薄い一首を畳みかけるように並べる連作の作り方は、一首屹立の短歌が多い現在の短歌の現状に一石を投じるものだと言えるだろう。

嫌いとか言葉にせずに こう なって こう なまま 会えちゃうもんですね
 一字空けと半角空けを多用して、話している時の空気感をそのまま出している。また、「こう」の内容が読者には分からないまま一首は終わる。嫌いな相手と何となく状況が流れるままに会えてしまう。向こうの気持ちは分からない。でも会えちゃう、それがいいのか悪いのか分からないけれど。

つらかった、とかじゃなくすごいふつうに、死のう、な時期に食べていたもの
 辛かったを通り越していつも死のうと思っていた。死ぬのなら食べなくても良さそうなものだが、その時期も身体は食物を欲し、何かを食べていた。その食べていたものに今、思考の焦点が当たっている。もう今はその時期を脱したからこそだろう。その時期は何を食べているかに気は回っていなかったはずだ。「ふつうに」もふつうに使われている。

歩いても行けるらへんの吉野家に車で行ってんの 終わったな
 行ける辺り、を「行けるらへん」と表現する。この「ら」の使い方が現時点での口語、現代語であり、しかも話し言葉だ。「行ってんの」の「の」は「行っている」ことを名詞化している。歩いても行ける距離なのに車で行く、それを「終わったな」と価値付ける。生活をワンランク上げてるつもりだろうけどそれは違う、それって吉野家への行き方として違うんじゃないかという気持ちだと読んだ。

信号がついさっき青じゃなかったらきっと渡っていた歩道橋
 連作「Victim」はコロナ禍のぼんやりした不安感を表現した一連だが、底に自分の人生に対するどうしようもない無力感と、孤独感、自分にとってごく普通になってしまった孤独感が流れている。日常はいつでも幾つかの分岐点に分かれている。少し前の時代の映画や小説ならそれは劇的なパラレルワールドへの曲がり角になったはずだが、作中主体の人生ではその分岐点は「どっちでも大差無い」ものに過ぎない。信号が青だから横断歩道を渡ったが、青ではなかったらきっとあの歩道橋を渡っていただろう。それほどの微差の積み重ねが毎日を形成している。かなりどっちでもいい選択。自分に取ってどうでもいい選択で毎日が流れているのだ。虚無感というには淡すぎるが、淡いゆえにより苦しいのかも知れない。

親からのLineは未読無視してる 四十とかまで生きないっすよ
 しかし親が心配して何かとLineを送ってくるのは知っているのだ。心配なんかしてくれなくても結構。そんなに長生きしないから。親は四十代だろうが、自分は四十までは生きないだろう。「とか」「っすよ」、話し言葉に限りなく近づけた表現が、淡々と心境を描き出す。

・グループDMで他のメンバーからの連絡には全部「♡」のリアクション付けてた人が、僕からの連絡にだけなんもしてなかった。(詞書)
今やってるこれを恋愛だとしたら、あれもそうだったってなっちゃう
 だから「これ」は恋愛ではない、という結論だろう。しかし心の中には「これ」はひょっとしたら恋愛なんじゃないかといううっすらとした思いもあるのだ。いや、過去の「あれ」が恋愛ではなかったのだから、「これ」も恋愛ではない。だから、自分の連絡にその人が「♡」を付けなくても大丈夫なのだ。

ニンテンドーDSがある枕元 その奥で、待ってるから、って 誰か
 毎日同じ時間に待ち合わせてゲームをしているのだろう。DSの奥で待ってるからと言っている誰か。本人に直接対面で会ったことも無い、名前も知らない、けれどゲーム機の奥では毎日一緒に会って、一緒に行動している。今、自分はそのゲーム機を手に取らない。「待ってるから」、と待っていてくれる誰かがいることを知っていて、スイッチを入れない。待っている者にも、待たせている者にもある孤独感。

 で、その頃僕はフォローを解除されたらわかるサービスを使ってて、そのひとからフォロー外された通知がきて、突然だったけど全然びっくりしなくて、あー、了、解です。 と思った。(詞書)
蝉の声は突然聞こえなくなって、あれ、いま、いつで、なにしてたっけ 
 連作「了解」のタイトル、さらに、この歌集タイトルの『了解』はこの詞書から来ているのだろう。「あー、了、解です。」という言葉に相手から嫌われてしまった、関係を断たれてしまったことを受け入れる気持ちが、「、」の効果によって、受け入れた速度そのままに伝わってくる。そして詞書で「了解」しているにもかかわらず、蝉の声は聞こえなくなり、今がいつで自分が何をしているのか不意に分からないほど衝撃を受けている。この詞書と歌のバランスが絶妙だ。

会いたいよ わからないならだからこそ会ってもわからなかったをしたい
 結局会うことの無かった人。会いたいと思っていた。お互いの気持ちがわからないから、だからこそ会いたい。そして会ってもわからなかった、という体験をしたい。(会ってもわからなかった、をそのまま名詞化しているところも注目したい。)そう思いながらお互い一歩を踏み出すこともなく、ただネット上の繋がりだけが薄く続いた。そしてこの連作「了解」の最後でその繋がりすら切れたことが示唆される。この薄い、けれど心に食い込んでくる重さの人間関係。これを現代と呼んだらいいのだろうか。

今はまだ死のうとしなくていい僕ら並んで電車が来るのを待った
 『了解』の「あとがき」は短歌と詞書で構成されている。こういう形態のあとがきは初めて見た。そしてそれは違和感無く綴られていく。他人の心の裏が、ネットでの書かれていない悪口のように、頭に浮かぶ。人の気持ちを読んで読んでへとへとに疲れているけれど、今はまだ死のうとまではしなくていい。心を読もうとして読めない相手と何も無いように並んで電車を待つこともできる。人が一人でいること、他者と繋がるということは何だろうという思った一連(あとがき)だった。

短歌研究社 2022.11. 1700円(税別)


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