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塩野七生『十字軍物語2』(新潮社)

 シリーズ第2巻。第一次十字軍で建設された十字軍国家の維持に努めようとした人々と全くの失敗に終わった第二次十字軍。その後、その失敗の衝撃に耐えながら何とか十字軍国家を維持しようというキリスト教側の努力と、(こちらにとっても)「聖地解放」を目指す「聖戦(ジハード)」を戦うイスラム教側を描く。
 言わば、第一次と第二次、第二次と第三次の狭間の時期を描いたのが本冊だ。聖堂(テンプル)騎士団、病院(ホスピタル)騎士団(=聖ヨハネ騎士団)、という二大騎士団が十字軍国家維持に果たした役割や、それぞれの騎士団の違いなどもよく分かった。

〈地図を一見しただけでもわかるように、地中海の東岸にへばりつくようにある十字軍国家は、イスラム世界によって北からも東からも南からも囲まれた状態にあったのである。にもかかわらずその状況下で、二百年は存続したのだった。〉P171
 これらを成し遂げられた条件として、前出の騎士団と彼らが守った城塞の重要さが挙げられている。しかしこれら、定番の理由以外に塩野は独自にイタリア海洋都市国家の海軍力と経済力を挙げている。神のために、ではなく、金のために、であったためか十字軍の歴史の記述者からは常に矮小化されてとらえられていた要因だ。

〈歴史家ならばこの点を突かねばならないと思うが、その点を突いて行くと、世俗的な領土欲やカネ稼ぎも認めることになってしまうので、「神がそれを望んでおられる」の号令一下始まった十字軍の歴史を書くには、キリスト教徒としてはどうも釈然としないのかもしれない。なにしろ、持続性ということならば、神への誓いよりも我欲のほうが持続性があるということになってしまい、それがいかに人間性の現実であろうと、受け容れるのは気分の良いことではないのである。〉p174
 キリスト教徒でもイスラム教徒でもない、塩野だからこそ書けた十字軍史だと言えるだろう。宗教的な陶酔から無縁なだけでなく、塩野は世俗的な感傷からも無縁だ。このドライで現実的な筆致こそ歴史を書くのにふさわしい。

〈君主政の国では、戦争を行うか行わないかは、その国の王なり領主なりが決めるのである。そのために要する費用も、この人たちが負担するからだ。十字軍時代よりは二百年は後の話になるが、ドイツの君侯の一人であったブルテンベルグ伯は、これから聖地巡礼に発とうとしていたドメニコ会の修道士シュミットに向かって、次のように言ったという。
「世の中には、人に推(すす)めるべきか、それとも推めないほうがよいのかと迷う事柄が三つある。第一に結婚、第二は戦争、そして第三は聖地巡礼だ」〉P183
 ここ、笑った。

〈ライ病は、肉体の内部の破壊から始まるので、外見ならば、初めのうちは健康な人と変わらない。それでも多くの人は気づいていたので、十三歳で王になるボードワン四世の戴冠式に列席した人々の胸を占めていたのは、痛ましいという想いであり、この王をいただく自分たちの将来への不安であった。
 だが、少年のほうが、臣下たちよりは自らの状態を正確に知っていた。自分の命が長くないことも知っていた。にもかかわらず、できるかぎりのことはしようという気概にあふれていたのである。〉p217
〈イェルサレム王ボードワン四世は、死ぬまでの十一年間の治世を、病いを理由に王室に引きこもっていたのではまったくなかった。〉P226
〈戦場に放置されていた敵側の軍旗を引きずりながら凱旋したボードワンと騎士たちを、イェルサレムの住民たちは泣きながら迎えた。誰もが、難病をかかえているにもかかわらず指導者としての責任を果しつづけるこの若き王を、ささえきる想いを共有していたのである。〉p228
 イスラムにサラディンあり、と言われた、傑出した武将であるサラディン。そのサラディンと対峙して一歩も引かず、病いに冒されるわが身を馬に縛りつけてでも戦闘の最前線に出て戦い続けた若きイェルサレム王。塩野が「若き癩王」と呼ぶボードワン四世の活躍の部分は、思わず胸が熱くなり、引き込まれる。この一冊を通して塩野の登場人物愛を一身に受けたといっていい描かれ方だ。最後に挙げた部分はサラディンの13000の軍隊に対し、580騎で挑み、サラディンを敗走させたモンジザールの戦闘の凱旋部分である。

 ボードワン四世とその忠臣たち、そして彼を苦しめることになる肉親や悪臣は本作の中で特に生き生きと描かれている。敬愛すべき家庭教師であった「ティロスのグイエルモ」や、最後はイェルサレム開城をサラディンと交渉する忠臣バリアーノ・イベリンはもちろん、義兄だが、人の上に立つにはほぼ無能のルジニャン(塩野曰く「美男以外に取りえのない男」)や、「鎖を解かれた犬」と呼ばれたシャティヨン(悪いことをしている意識が無いという意味でもお決まりの悪役)なども、歴史上の人物とは思えないほど生気を持って描かれている。

新潮社 2011.3. 定価:本体2500円(税別)



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