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富田睦子『風と雲雀』

第二歌集 2013年から18年までの歌を収める。子育ての歌が中心で、そこから配偶者へ、自分の親へと詠う対象を拡げていく。作者はあとがきで植物や風景を詠った歌を歌集収録時に多く削った、と述べているが、自然を詠うのは難しいと私は思っている。おそらく人事を詠うより自然は手強い。そう思いつつも、この歌集のあけぼの杉の一連には心惹かれた。

柔らかき頬に触れたき衝動をわが子であれば赦されている

 子供を産み愛する中で、最も大きいのは触感ではないだろうか。乳児のポチャポチャとした手触りはかなりの年齢まで残る。遊ばせ食べさせ風呂に入れ寝かせる、そんな触感中心の日々から、勉強させる、友達という人間関係を習得させる、など頭を使う日々に、年齢とともに子育ても移行していく。けれど結局最後は柔らかい身体に触れ、抱きしめることに戻る。子に触れたい衝動、それがわが子であれば無条件に許される幸福。

人恋しき時に出会える人だった。だけ、かも知れぬ夫という人

 でも、その「だけ、」が大切なのではないですか。誰でもいいのかも知れないけれど、無意識に選んでいる。「出会える」のではなく、意志として「出会う」相手が夫という人なのだと思う。

ふゆめふゆめ木蓮さくらふっくらと胎児(はらこ)のように時を待ちおり

 2月頃に街路樹を見ているのだろう。最も寒い時に花が咲く力は蓄えられる。芽がふっくらと膨らむ様子を胎児に喩える。春が来てはじけるように花が咲く様子が、地上に産まれ出て光を浴びる新生児の姿と重なる。初句六音の繰り返しがゆったりとして楽しい。

日傘もて淡き日陰を歩くとき戦後の映画のごとき蝉声

 とても端正で好きな歌。戦後の映画は娯楽の全てであり、それに対する人々の思い入れは現代からは想像し難いものだ。日傘を差して日陰を歩む自分を外から見る視線。激しい日光と蝉声が降りかかる。日陰に対する「淡き」という形容がいい。日傘も流行に左右される。長髪にジーパンが流行った頃、またバブルに沸いた頃、人々は日傘を差していなかったように記憶する。そんな時代を飛び越えて戦後すぐへとタイムスリップした歌かも知れないし、夏の本質は結局変わらないという歌かも知れない。

今も今も一秒ごとに未来ぞと少女はつぶやき椅子回しおり

 利発な少女。まったくその通りなのだ。今は一瞬ごとに過去になり、私たちは一秒ごとに未来へと進んでいる。大人は過去に目が向くが、子供は未来に目が向くのだということを知らされる一首。

言うほどにはなき痛みもち女らは鰤大根をこっくり煮ており

 「言うほどにはなき」は言うほどでもない、大したことはない、の意味だろうか。「にも」ではなく「には」なので迷う。大したことはない痛みということなら、かなり鋭い批判だ。大したことのない痛みを口に出すだけ出して、その後鰤大根を煮るような日常生活に戻っていく女たち。しかし、口に出すようなことじゃない小さい痛み、ということなら、その口に出せなさが煮込まれていく鰤大根と重なって、軽く怨念めいたものに仕上がっていく。

夜を降りて闇へ消えゆくぼた雪を光の届く部分だけ見る

 目に見える事実を詠って、しかも象徴的な歌。空の闇から降りて来て地の闇へと消えていくぼた雪を、おそらく人工の灯りが照らしている。自分はその照らされた部分だけ見るのだ、という把握。和泉式部の「暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ 山の端の月」を思い浮かべた。

(ごみのように渚に濡れてうつ伏して)ふざけたふりして吾子抱きしめる

 SNSで子供の遺体の画像が流れて来たことを詠う一連。日本のニュースでは遺体映像にぼかしがかかっているから、遺体の映像を見たことが無い人は多い。主体は見てしまいその映像を脳から消せず苦しむ。自分の子だったらという思いに苛まれて、子を抱きしめる。おそらく世界の多くの部分では、人が人の無惨な遺体を見ることが日常化しているのだということを頭で理解しつつ。

一生をわれは忘れじ吾子に向けマウス投げつけ恫喝せしを

 なぜ子供が親である自分の思い通りに行動しないことが、ここまで自分を苛立たせ追い詰めるのか。「恫喝」という堅い語を入れたことがこの歌のかなめだと思う。そう、恫喝なのだ。子供が「親である私」になろうとしないことは、子供に「親である私」が否定されることに他ならない。その焦り、恐怖。それが「恫喝」という行動になって現れる。誰もが通る道などと言われたくない傷となって、それは一生心に残るのだ。

 もちろん子供は親と別人格だが、多くの親にとって、内心、子供イコール自分であるため、子供を詠った歌は自己愛の歌になる。これは非常に難しく、客観性を持ち難いテーマだ。特に母親であれば試金石であると言えるだろう。だれもが河野裕子のような子育ての名歌を詠めるわけではないのだ。分かっているが自分の子供に対する愛情に目が眩んで自己愛全開のような歌を詠みがちだ。子供に対する不満を詠ってもそれは子供を通してみた自己愛の裏返しであったりするのだから。

弛緩して口呼吸するチューリップこういう花と思う おんなの

 チューリップの少し開いた花の先を、弛緩、口呼吸と捉えたところが凄いと思う。「こういう」「おんなの」というどこか緩く弛緩した四音が内容に合っている。最後の言いさしは何だろう。「おんなの」嫌なところ、どうしようもないところ、か。そう捉えていたとしても、その弛緩が自分の中にもある事を認識している。歌集中、一番好きな歌。

角川書店 2020年4月 2600円+税


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